生涯の終りに

「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちを、思い起こしなさい。彼らの生涯の終りをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。」

ヘブライ人への手紙13章7節

人生を生きることはさまざまにたとえられます。石を一つひとつ積み上げることにたとえられることがありますし、また主イエスのように、しっかりした土台に家を建て上げられることにたとえられることもあります。けれどひとりの人が、予想もしない社会の激動や、思いがけない問題に翻弄されながら、自分を建てあげて行くことはなかなか容易ではありません。自分自身の弱さや足りなさを自覚しながらも、年令を重ねるなかに、責任ある立場に身をおくことになったり、親となったり、それなりの責任が発生します。それは避けがたいことです。今回の交流会のために由木教会の歴史を多少振り返ってみました。わたしたちは1970年代に教会の歩みをスタートしたのです。オイルショックでティッシュペ-パ-が不足する騒ぎが起こった頃です。その後日本経済のバブルが始まりました。私は1944年生れの戦後派。教会活動をはじめるということはまっさらな白い紙に何かを書きはじめるような、そういう意識でした。しかし、こうして教会活動がスタートするには、それに先立つ、40年前の、痛ましい信仰の挫折と涙の試練が注がれていたのでした。

1930年代、日本が15年戦争にのめり込んで行く異常な時代に、この忘れられたような貧しい由木村で驚くべきキリスト教信仰による覚醒運動が起こり、当時200名ほどの人々が集う教会が生まれたのです。医者が見放した病人が奇跡的に癒され、精神を病んだ人が次々と回復し、芋づる式に次から次へと回心者が起こるという信じがたい出来事がおこりました。残念ながらその信仰の出来事は、完璧に覆され、あたかも何もなかったように、教会堂すら解体され、その痕跡すら消えてなくなったのでした。そのなかで、ほんの数名の人々が戦後、信仰の回復を見、そのこころざしが由木教会の再建に至ったのでした。

それは単に由木だけの特殊な現象ではなかったと思われます。大きくは日本が天皇制軍国主義に傾いて行く時代にあって、キリスト教会自身が、時には強いられて、時にはすすんで戦争協力に道を開く中で、福音的信仰を曲げて行く過程の中で起こったことでした。その時に決定的役割を果たしたのはホーリネス運動の創始者でカリスマにあふれた指導者、中田重治監督という人です。中田重治なしにはホーリネス教会は日本に誕生しなかっただろうし、発展もしなかったといわれます。いまだにホーリネス系教会では深く敬愛され、多くの人々が<中田重治に学ぶ会>に参加しました。(教団本部の会議室にはこの人の写真が掲げられています。)
しかし、中田重治の考え方は晩年、明らかに正統的キリスト教信仰から逸脱したのでした。中田によれば日本人は失われたイスラエルの一つの支族であり、日本のアジアへの侵略戦争は、キリスト再臨前の最終戦争として肯定され、アジア侵略は神が与えた使命、とさえなった。そうした考え方に、信仰の立場から批判が起こるのは当然でした。結局、聖書学院の五人の教授派と、中田監督派とのあいだで、ホーリネス教会は分裂したのです。創始者でもある、カリスマティックなリーダーの脱線は、昂揚しかけたホーリネス運動そのものへの致命的ダメージだったに違いありません。リーダーが躓いてもいても、少しも動じない仲間や信徒がいれば亀裂はより小さいもので済んだかも知れません。でも、中田重治ほどの人が、こうした発言に至るほど当時は、軍国主義の重圧、皇室畏敬が強要されたのでした。だからといって、指導者が踏み外していいということにはなりません。その逆です。

ヘブライ人の手紙では『彼らの生涯の終りをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。』と呼びかけます。私は思う。信仰においては、どんな偉大で優れた業績を残そうと、最後を全うしなければ、それはむなしいということです。『その人を知らず』と主イエスを否認したペトロが、なぜ赦され、イスカリオテのユダが、人々からなぜ嫌われるのでしょう。最終的に、悔い改めがなかったからです。由木の古い家には庭先に人の身長ほどの赤い鳥居を持っている家がよくあります。戦前に由木教会で活躍した老人の中に、そうして赤い鳥居を建てている人を複数見たことがあります。かつての信仰覚醒の残骸のなかに、困難な時代の痕跡を見ます。

(2006年01月29日 週報より)

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