信頼と愛でむすばれ

教会堂が職場であり、また生活の場であるわたしたち夫婦は、さまざまな人々とか かわりを持ちます。ウイーク・デイにとつぜん教会を訪ねてくる方々の中には、日曜日の礼拝においでになる方々とは、服装も、様子も、まったく様子のちがう人々もし ばしばです。でも人生いろいろ、教えられることは多いのです。また人間だけでな く、今まで地域の人々から犬や猫や鶏、チャボ、カメに至るまで、いただいたり、ときには押しつけられたりして、飼いました。でもそうした動物たち、それぞれにいとおしく、ただのペット以上に家族の一員でした。前の会堂で、庭にチャボを放し飼いにしていたことがあります。つがいは、みるみるうちに家族を増やして11羽までになり、当時貧しかった我が家の家計のため貴重な有精卵を毎日提供してくれたものです。
このチャボは、時折、夜襲ってくる野犬をおそれて、空高く飛んで、舞い上がれるようになりました。野犬が来ると教会の屋根にまで飛び上がるようになったのです。場合によっては道路を隔てた隣家の屋根まで飛んでいったことがあり、生き残るための動物の工夫、努力のすごさを覚えました。おそらく飛行距離世界一のチャボではなかったかと思っています。また、ひよこから育てたニワトリが、ペットのようになじんでくれたことも記憶に残っています。まるで自分を、トリでなく、ひとりの人間だと思い込んでいるようでした。犬の散歩にもついてきました。犬よりもはるかにえらそうに行動し、わたしたちの言葉も理解しているのではないかと思うようにしばしば感じたものです。17年前、あまりの猛暑の中で耐えられずに死んでしまったときには、ほんとうに悲しく思ったものです。

二年前に老衰で死んだ愛犬チョビもさまざまな思い出を作ってくれました。飼い始めて2、3年目のことです。堀の内の郵便局に、チョビを同行して行ったのです。しばらく買い物をしたり、本屋によっている間、入り口近くにつないで待たせておいたのです。すると、どなたか犬好きな方がおられたようで、チョビの前に、彼が見たこともない、うまそうなパンがおいてありました。いつもなら、待つ間もなく食らいつくはずなのです。ところがその日、わたしがチョビのところに戻るまで、彼は手をつけなかったのです。わたしが戻ってきて顔を見せたとたん、パンに食らいついて、呑みこまんばかりに食べ始めたのです。そうしていつものチョビに戻りました。チョビが目の前のパンを我慢するということは、わたしの想像をはるかに超えたことで、彼にとって信じられない忍耐が必要だったでしょう。でもチョビは禁断の木の実ならぬ、パンの誘惑に勝ったのです。
動物は本能だけと言うのはほんとうではないと思います。チョビも食欲より、飼い主との気持ちのつながりを第一にしてくれたのです。

その前に飼っていたビーグルとの雑種犬クロは、近所の人から<クリスチャン>と呼ばれていました。クロは同居していたチャボにも、また猫にも不思議とやさしく接してくれていました。彼はわたしたちが夏のキャンプで3日間留守した折に、お隣の方が水、食料、散歩を引き受けてくれていましたが、寂しさもあったのでしょう、わたしたちが帰宅する日の朝に死んでしまいました。

こんなに深く、人と動物は愛情で結ばれる、ということをわたしたちは教えられました。昨今日本で起こっている関係の崩壊は目を覆わんばかりです。学校で<愛国心>は通知表で成績評価されるそうですが、頻発する親殺し、子殺しの背後に、命を愛すること、人を愛することが、家庭でさえ軽んじられているのではないかとすら思います。
教会は、心をゆきかわし、微笑みあい、許しあい、愛に生きるところです。条件や、見返りや、がんばらなければ相手にしてもらえない関係でなく、無条件で愛され、受け入れられる場所が人間に必要なのです。教会こそ、そうしたところです。そうした場所になるべきです。愛は犬にも、ニワトリにも伝わります。人が変われない筈がありません。

(2006年09月03日 週報より)

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