あるがままの人生を
われわれ生きとし生きるものにとって、病気や死別という現実は最も近い隣人です。われわれ自身がそうした現実の最中におかれることも、決して遠いことではないはずです。だからこそ生きることの<はかなさ>と<かけがえなさ>を深く自覚すべきですが、日常の雑事に追われて、まるで自分の身にはそうした危機は起こらないかのような能天気を決めて、わたしたちは日々を暮らします。しかし、直視しようと、しまいとにかかわらず、人間存在がそうした重大なところにおかれていることに変わりはありません。現にわれわれの周囲にはそうした痛み、苦しみ、悲しみの中に過ごす人々が常にあり、未知の他人でない限り、互いに心ゆきかわし、そこに精一杯の言葉をかわすのです。
人は時に動揺するものです。年齢と共に成熟し、こころ安定し、動揺などという弱さを見せない人もいます。けれど時に私は自分を失い、ひどく動揺します。年齢を重ねれば、もっと出来上がった自分があるものかと思っていましたが、いつまでたっても<宗教家>などという体裁とは程遠く、少なくも生涯賭けてなんとか<求道者>であることをもとめて たどたどしい歩みを続けることでしょう。
けれどあの偉大な宣教者パウロも意外に感情的です。第2伝道旅行において、パウロはかなりの時間を費やしてコリント伝道をします。その際パウロは「わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。」(1コリント2:3)と書いています。この時のパウロの精神状態を、精神科医や臨床心理士が判断したら、なんらかの病名がつくのだろうか。人は平穏な状況と危機的状況を行きつ戻りつするのですから、自らが不安であること、恐れがあることを周囲に告げられるなら、その人はパウロほどにすこやかと言えるのかもしれません。パウロは心弱ることを、すこしも恥じません。恥じないどころか、これを堂々と肯定します。
だれかが弱っているなら、私が弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。
2コリント11:29
むしろ心弱っている人をみて、心弱り、不安を覚え、駆り立てられるように神の前に出る。祈りは何らかの状況の変化をもたらすことだけにとどまらない。状況は少しも変わらないこともある。それが祈りの答えであるかもしれない。けれど、ふしぎに状況を受け入れる心が与えられるのです。ことを肯定的に受け止められる心の変化がそこに起こるのです。つまり不安から、平安な心に導かれます。まさしく<救い>が実現します。
10月29日の朝日新聞によると、プリンストン大学のノーベル賞受賞の経済学者、ダニエル・カーネマン教授の調査によると、日々の幸せを感じる度合いは、年収7万5千ドル(610万円)までで、これを超えると幸せ感は消えるとのことです(ただしアメリカ人45万人の調査だそうです)。幸せは金で買えないことが証明された・・・らしい。
ただナニ人であろうと、何がなくても、キリストを受け入れるとき、自分の人生も受け入れることが出来ます。この信仰を土台として生きるとき、人は与えられたそれぞれの人生の状況・環境―多くの場合それは耐えがたく感じているものですが、こうして生きることが、肯定できるのです。ただ一度の人生、自分自らの生き方すら肯定できないとすると、きっと他人にも否定的にしか、生きえないでしょう。ああ何のための人生とすら思えます。
虚勢や我をはって生きることも確かに人生です。でもさぞ疲れることでしょう。信仰と望みを持って、おおいなる肯定にいきることがだれにも可能です。
(2010年10月31日 週報より)