合意形成法

わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。あなたがたはめいめい「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。

第1コリント 1:11,12

私たちの社会には、様々な争いやトラブルがつきものである。それは職場での些細な人間関係から隣近所との付き合いや家庭内での揉め事そして国家間での領土紛争に至るまで、もう毎日のニュースや心を占めている悩みの種といったら尽きることはない。

私もここ数か月は、関係する学会組織が所有している蔵書の扱いを巡って翻弄されている。理知的に道理を噛んで含めるように説得しても、理解が得られないことがある。常識や道理が時として通用しないということを身に染みて感じさせられた。もちろんそこには思想とか価値観の違いといったものが大きく作用しているのだろうけど、どうもそれだけではなく現在の地位や立場あるいは学閥といったことに判断が左右されてしまう情けない現実をいやというほど思い知らされた。

こうしたことは何も学問や経営・商業といった世俗に関わる領域に限られることではない。キリスト教界もご多分に漏れずといったところである。日本で一番大きな教派である日本基督教団の総会が先月開催されたが、ネット上の速報レポートを読むと「議場混乱」の連続で憂鬱になるというか、気が滅入るというか、やるせなさが募るばかりである。

対立点は、「開かれた聖餐」を巡り、関係者の教師退任勧告からとうとう免職決定に至る事柄であり、沖縄の教会から提起された「名称変更」を契機とした「合同のとらえなおし」に関しての対立である。異なる立場の人々が互いに認め合い理解しようとするのではなく、規則や戒規で無理矢理押し通そうとする「数の論理」「力の論理」がまかり通っている。ここに、「愛」や「洗足」といったキリストの教えをみることができない。あるのは、自らの保身、秩序の維持だけである。異論を排してなされる「一致」とは、いったい何なのだろうか。戦時中に「第六部」および「第九部」といわれたホーリネス系の教会を追放した歴史の教訓が、全く生かされていない。

心ある人からは「義に過ぎてはならない」(伝道の書7:16)という言葉が示されているが、全くその通りだと思う。自らが正しいと思い込めば思い込むほど、そこに陥し穴があるのだ。一人の女性を取り囲み握り締めた石飛礫を解きほぐす「言葉」・「精神」が、なぜ届かないのだろう。

アメリカのクエーカー教は、アメリカ先住民から「合意形成法」を学んだという。そこでは、集会において参加者それぞれが自らの内なる「神の声」を聞きつつ一致に到達するという。絶対的他者を内面化し共有することで、それぞれの利害が調停される。こうした手法は、非暴力そして反戦というメッセージをもって、公民権運動と反原発運動に引き継がれていった。現在の私たちは、はたして「聞く耳」を持っているだろうか。

五十嵐 彰 (2010年11月14日 週報より)

おすすめ