起きて歩きなさい
健康食品やフィットネス器具が人々の関心を寄せています。けれどこの世の中には健康な人々がいる一方で、多くの人々が病床に臥してもいます。人生は健康であるに越したことはありませんし、人々は事あるごとに、神社で<無病息災>を祈ります。しかし、人間にとって生きるということは、同時に心や体のどこかを病む存在でもあります。完璧な健康な人間など、どこにもいないのではないかと私は感じています。むしろ何か一つの病気を持っている人のほうが、常に医師の診察の機会もありますし、むしろ長生きするとある医師が新聞のコラムに書いていました。
一見健康に見えても一つ二つ、病んだ部分を持っているのが人間です。むしろ病床に臥していて、病気に打ち倒されない心こそ、真のすこやかさといえるのではないでしょうか。生きているからこそ体の一部分は故障したり、機能不全にいたることはやむをえないことです。しかし人間は全人的存在です。人間存在総体がいかに病気に打ち倒されずに健やかでいるのか否かが、病気か否かを決めていくといえます。
主イエスはベトザタ(ベテスダ)の池で38年もの長きにわたって病んでいた一人の男を癒しました。彼はそれまでこうした弱い体の自分を生んだ親を恨み、自分を助けようとしない世間をうらんで、さらにはこうした運命を押し付けた神をも恨んで、生き続けてきたといえるかもしれない。病んでいた体以上に病んでいたのは彼の心でした。だからこそこの人にはイエスの癒しが必要でした。彼は癒されるには癒されました。否、完璧に癒されました。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」イエスの不思議な癒しの力に、彼はふたたび、38年ぶりに起き上がり、立ち上がり、歩き始めたのです。
しかし、不思議なことにイエスに対する深い尊敬や感謝は記されてはいません。そうして癒していただいた不思議な人を探しまわろうともしていません。逆に、主イエスのほうから彼に近づかれて、「もう罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」(ヨハネ5 : 14)と暗示的な、警告的な言葉が語られます。そしてあろう事に、この人はそのまま彼はユダヤ人のところに(つまり警察に!)直行して、「自分をいやしたのはイエスだと知らせた。」のでした。こうして彼は自分の38年からの病気をいやしてくださったイエスを敵に告発したのです。
それもこれも、これからの自分の社会復帰を円滑にするためでした。ユダヤ人権威筋と折り合いをつけるためには、いやし主イエスすら邪魔になったからです。神にいやされ、救われるということは人生の重大な危機においてです。それはこの上ない恩恵、感謝な事です。
だからこそ、そこからの人生は、神に答える人生を生きることです。癒されたベトザタ池にいた人は、体は癒されましたが、心は少しも癒されてはいなかったとさえいえます。イエスをそうして裏切ったように、その後の生涯もひたすらエゴに生き続けたかもしれない。自分の都合がすべてに先行するなら、次々と自分の都合にあわない人々を捨てていったかもしれない。でも、いつかそうした自分であることを恥じる機会を持っただろうか。神の業を生かすも殺すも、彼自身の決断、応答によるのでした。それほどに神は私たちの主体性を重んじておられるのです。寛容で、深い愛にあふれ、広い心でわたしたちを見つめる神。この方を前にして、心から喜んで神の前に生き続けたいのです。
(2007年09月30日 週報より)