信仰に生きる

ガラテヤ6章1-10節

Please accept YouTube cookies to play this video. By accepting you will be accessing content from YouTube, a service provided by an external third party.

YouTube privacy policy

If you accept this notice, your choice will be saved and the page will refresh.

信仰に基づいた助け合い

イタリアのミラノといえば何と言っても、かの大聖堂が有名です。元々ミラノには古代から教会はありましたが、大聖堂になる教会堂は14世紀に着工され、19世紀に完成したのだそうです。その大聖堂の真裏に、もう一つの教会堂があります。その教会堂は、大聖堂を建設する労働者のための教会だったところですが、現在はカトリックのミラノ日本人教会になっています。この教会の神父をしている方は19年間、鹿児島の鹿屋と種子島で宣教活動をしたルチアーノ・マゾッキ神父様です。ものすごく心温かい方です。この場所を日本人のための教会にしてしまうのですから、ただ者ではありません。
この神父様の部屋を見せていただきました。目の前にドーモの鐘楼が間近に迫っています。床の上に畳み一畳が置かれていて、その上にゴザが敷かれてあります。そこがベッドです。足が出るのではないかと連れ合いが聞きましたら、それでもまったく不便はありませんとのことです。隣りに祈りの部屋があります。見るからに日本の茶室模様なのです。ルチアーノ神父は在日中に座禅を深く学んだ方で、座禅とカトリック的な瞑想を茶室のイメージを取り入れて、日々の祈りの場としておられるのでした。ほとんど私物はなく、徹底的に捧げきった、聖なる生活ぶりが形を成してそこにありました。
週に一回はパルマまで出かけて、老人ホームのボランティアも大切な仕事として受け止めておられるようでした。大聖堂のための奉仕も少なからぬ部分を占めているだろうし、日本人教会は大きいとはいえないものの、そこに足を踏み入れた方々に深い信仰の息を吹き入れている姿が、深く読み取れたことです。娘はこの神父の行き方に深く心動かされているようでした。

<たゆまず善を行いましょう。>(9節)は、口語訳では、<善を行うことに倦み疲れてはならない。>です。ここで言う善とは、信仰に代表される<よきこと>と置き換えられると思います。信仰を生き、善を生きることは確かに倦み疲れない精神が必要です。人は自分の行く末さえ不明なのですから、信仰を生きることは将来も含めた、神と共に生きようとする一生を決める決断です。
わたしが二十歳になったとき、生涯にわたって礼拝に与ろうと決心しました。聖書と賛美歌を教文館で買って、行った教会は砂埃だらけの、10人にも満たない小さな時間貸しの集会所でした。ミス・Rという献身的なアメリカンスクールの教師をしていたアメリカ人が日曜学校、礼拝説教をし、英語のバイブルクラスをしていた集会場でした。この方が由木教会信徒のご両親と、たいへん親しい方であったことがその後に判明しました。
<霊に導かれて生きているあなたがたは>というのはルチアーノ神父のような、ミス・Rのような疲れを知らずに聖霊によって生きている人という印象があります。ただパウロの言う<霊に導かれて生きている>人とは、特別な賜物の人というのではなく、教会のすべての人々をそう呼ぶのです。信仰をもって、神を信じて、教会に集う人はすべて<霊に導かれる人>です。

ガラテヤの教会には人間関係に何らかの問題があったようです。しかも何らかの道徳的問題がそこには関わっているかもしれない。
「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。」(3,4節)  
誰かが罪を犯したときに、人が取る態度は、軽蔑、怒り、関係の断絶です。「自分なら、そうした罪は犯すはずがない」と確信しているのです。それは問題を処理するに当たっては一番単純で、すっきりした解決に見えます。けれど、人をばっさりと断罪するやり方は、ことによっては同様な罪におちるかもしれない。自分が神の前にひとかどの偉いものであるかのように、「この罪は赦せない。断罪する。」と言い張るとすると、それはキリストの恵みを忘れた存在であり、自分を欺くのだとパウロは言います。

パウロは「〝霊〟に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。」(1節b)と勧告します。罪から引き戻して、その人と共に歩み、その傍らに立ってあげなさい、というものです。罪を目撃した人の霊的さ、霊性が、問われるのです。
キリストの前に出るときに感じることは、自分自身の罪深さです。罪深い私の為にキリストが命を捨ててくださった。キリストを十字架につけるほどの罪人に過ぎない私を、キリストは赦してくださった。そして私の生涯のどこにでも、私の傍らに立ち続けてくださるキリスト。共に十字架につけられた強盗さえ、死の極みで赦されるキリスト。

お寺や神社に詣でる人々を善男善女と言ったりします。もっとも江戸時代には旅行の自由はなく、唯一、家を離れる機会はお寺参りでしたし、仏教や神社に、隣り合って男の遊び場が備えられていたのも事実ですから、果たしてそれが善男善女かは疑問があります。教会に集う人々は、元来、善良で誠実な人々だと言えるかもしれません。しかしそこには、自分の正義を疑わない律法主義が生まれる土壌があるということかもしれません。多少の善良さなどではどうにもならない罪の力が押し寄せるという点では、すべての人は同じです。イエス・キリストが払うことのできない罪の重荷を負ってくださったことを深くおぼえて、わたしたちも許しに生きようと志します。祈り、礼拝に集い、聖書を読み続けるのも、霊に信仰を蒔く一つの歩みです。種を蒔くからこそ、やがての日に収穫を得ます。

許しに生きることは理性ではよく分かっていることです。しかし、人間にとってこれを生きることは、さほど簡単なことではないのです。いざ、ここでこそ許しがなされなければならないときに、堂々と断罪が行われたりするのです。時には規則を歪めてまでも。ここでこそ日常の信仰が問われ、信仰があらわになるのです。人を責めることには早く、許しには遠い側面があるとすると、あらためてキリストの十字架を見上げ、許しに生きられるよう、いっそう私たちの心にキリストの十字架を刻み付けたいと願うのです。

2023年7月16日 礼拝メッセージより

おすすめ