修復的司法
先週、私たち夫婦はハワード・ゼアさんを講師に迎えて聖書学院で行われた、東京ミッション研究所主催の「牧師研修会」に参加しました。表向きのタイトルは《「新しい社会」を形成する教会―包括的贖罪理解による共同体の変革》と名づけられたものでしたが、その内容は最近司法関係者の中で注目されている聞きなれない言葉<修復的司法>に関するものでした。修復的司法とは英語のrestorative justice を翻訳した訳語です。これはアメリカにおける絶対平和主義に立つメノナイト派の教会活動の中で生まれ、社会的に大きな波紋を作り上げ、いまや多くの国々に紹介され、アメリカ、カナダ、ニュージーランドでは法制度化され、日本においては判事、検事、弁護士などの司法関係者、警察などで真剣に受け止められつつプログラムだとのことです。この修復的司法は、激増する犯罪の中で、被害者と加害者の直接対話を経て、両者が最終的には和解と許しに立つことをはかり、現在の司法制度の限界を乗り越えるひとつの試みと説明されています。
欧米でも、日本でも、犯罪は激増し、凶悪化が進みます。そのうえ、多くの犯罪者は犯罪を繰り返します。アメリカでは刑務所は、犯罪者の懲罰に焦点が置かれ、終身刑を宣告される人々も多くおります。日本の刑務所はむしろ犯罪者の更正に重点が置かれているとのことですが、実際には多くの受刑者たちは、再犯を犯します。アメリカの刑務所においていったん収監された人々は、そこで良くなるどころか、先に収監された囚人から、いっそうの悪事を教えられ、囚人社会の法則に従わない人々は、映画にあるように徹底的に痛めつけられ、所内でのレイプや殺害は珍しくないのだそうです。日本の刑務所でも、そこでの人間関係が次の犯行のきっかけになることがしばしばあります。つまり刑務所制度が新たな犯罪への温床となっており、所期の目的が果たされていないのです。
また他方、司法制度で忘れられているのが被害者とその立場です。現実の裁判においても被害者はほとんど省みられず、加害者についての知識は全くといっていいほど提供されないのです。犯罪被害者と家族は無視され、その結果被害者の心の傷は、少しも癒されないで置き去りにされます。そこで今回の講師となったハワード・ゼアさんは従来の司法のあり方を<応報的司法>と名づけ、それに対して被害者、加害者の和解を目指す、<修復的司法>を理論化し、実践し、日本においても各地において修復的司法をベースにした和解プログラムがすでに実践されているとのことです。ゼアさんは、本来はメノナイト神学校で神学を教える学者です。しかし、キリスト教をベースにした犯罪者の更正と被害者の心のいやし、両者の和解を試みる実践の中で修復的司法の構築に至ったとのことです。
今回の授業の中で、ある実写ヴィデオを見せられました。かつてひどい暴行を経験した和解プログラムの仲介者が、幼いころから父親の性的暴行を受けて、救いがたい犯罪者になった青年を紹介します。彼は、5歳の女の子を持つ、妊娠中の若い母親をレイプし、頭を銃で打ち抜いて、殺害し、終身刑に服しています。この人が修復的司法の指導の中で、深い悔い改めに導かれ、被害者の母親と、すでに成人し、なくなった母親ほどの年齢になった娘さんと出会う出来事が映し出されました。複雑な思いをつみ重ねた後ではありますが、男は深い悔恨の中で、自らの行為を見つめ、涙ながらに、謝罪し、出来事を詳細に語り、死を予感した被害女性が、そうした修羅場の中でさえ、ある尊厳を失わなかったことを家族に語るのです。
受け入れがたい出来事を語られた中で、被害者の母親と娘さんは強い被害感情から解き放たれるのです。そして「私たち少し変よね。」といいながら、最後に犯行を犯した男と、笑顔の中で記念撮影さえするに至る情景が映し出されていました。
このプログラム自体は、キリスト教ではありません。ですから日本においても、イスラム国でも注目が集まっています。しかし、その考え方の原点は、まさにキリスト教の贖罪論が息づいています。<和解と許し>はキリストの福音の大きな結果です。これはメノナイ教会の平和と和解プログラムの実践から生まれてきたものです。日本も、世界も、あらためて途方もないほどの憎悪と復讐の連鎖の中にあります。しかし、<憎悪と復讐>が、<許しと和解>に変えられる可能性があるとすれば、キリストの福音以外にありません。その感をつよくした一週間でした。
(2006年07月02日 週報より)