痛みを知って

私は5月末に痛風になりかけました。その時の検査では、痛風をもたらす尿酸の数値は正常の範囲でした。なぜ痛風が出たのか.主治医の判断では、おそらく、それ以前に多少高めであった尿酸が、風邪を引いて体力が低下したことによって悪さをしたのではないか、ということでした。そこで、私は一念発起して、多少の食餌療法と、早朝の、長めのウオーキングを日課とするように心がけたのです。熱帯夜の多かった夏でしたが、さすがに夜明け直後の涼しい空気は、ここ由木でも、避暑地の高原の爽やかさです。小鳥たちのさえずりはびっくりするほどカン高く、とても日中では想像できないほどです。早朝の小鳥たちは警戒心もいつもとは違い、見たこともなかった美しい小鳥が身近でさえずってくれる様子は、ちょっとした聖フランシスの気分を味あわせてくれます。ウオーキングも1時間をこえればこえるほど、効果は絶大になります。最近の万歩計はとてもかしこく、距離に従って、消費カロリーや、燃焼した体内脂肪まで計算してくれます。それが正しいかどうか、その真偽のほどは全く不明ですが、一応励みにはなります。6月から始めた長めのウオーキングで、9月に入り、ついに10キロ体重が減り、体脂肪率も5%減ったのでした。

けれど、それでも、私は右肩から、右腕にかけてかなりの痛みがあります。祝祷をする時に、自分ではしっかり挙げているつもりの右腕が、ひどく低いのに気付かれた方もおられるかも知れない。もっとも大半の方は祝祷中に目などあけないだろうから、御存知ないとは思いますが。私は片手をあげる祝祷はしません。あれは<ハイル・ヒトラー>に際して行なわれたスタイルだからという人がいました。悪い連想につながることは、私もしたくありません。無理してでも、上がりきらない右手も挙げて、両手で祝祷をします。でも、私の心の中では、多少落胆があるのです。せっかくこれだけ努力したのに、こんな痛みが出てきて、高速道路の料金所などではカードのやりとりがかなり辛いのです。衣服の着脱も、けっこうな苦行です。スーツやワイシャツのエリがたっていたりするのはそのためです。体重を減らして、10歳くらい若くなったような気分が味わえると思ったのに、実際にはこの痛みで、10才ほど年を重ねた気分なのです。

でも主治医の水谷先生から言われたばかりです。「これからは痛いところがあちこち出てきますよ。」まさに予告どおりなのです。たしかに、私は身をもって教えられました。人には身体にも、心にも、痛むところを抱え込むということです。<痛み>は歓迎する事態ではありませんが、人間はそこから行動したり、教えられたりします。今回の減量作戦も、痛風から始まったことでした。もちろん、痛みなどとは無縁の人も多くいるでしょう。全て人生が順調で、病気も、痛みもなく、金銭にも恵まれていて「人の心も金で買える」などと言い切る人もいます。でも、一ケ所、身体や心に痛みがあると、他人の痛みにも、少しは同情的になれます。差別されること、飢え、貧しさなどは心の問題とともに、肉体的苦しみをももたらします。
今回のアメリカのハリケーンで、明らかに見えたことは、世界でもっとも豊かな国で、あれほどの想像を絶した多くの貧しい人々が存在することでした。働く気がないのではなく、働く気があっても、奪われているから貧しいのです。豊かであること、強くあることはそのこと自体、弱い人々、貧しい人々から奪い取っていることということです。アメリカ政府が、救援の着手が遅れたことで批判されています。自分が痛まないことに、行動がおくれることは当然です。その上石油価格が暴騰して、石油産業は記録的な利益を挙げているとのことです。大統領のブッシュも、副大統領のチェイニーも、石油産業を代表する人物だそうです。ハリケーンは、もっとも弱い人々に塗炭の苦しみを、権力を握る最高富裕層にはいっそうの利益をもたらしたのです。

『よきサマリヤ人』の話しで、社会のエリートであった祭司、レビ人が傷ついた旅人を助けることが出来なかったのには理由があります。彼らは<被害的な立場に立たされた>痛みを知らない人々だったのです。サマリヤ人は違いました。サマリヤ人は、サマリヤ人と言うだけで、ユダヤ人から差別される側に立たされていました。日常の差別から来る精神的、肉体的痛みを味あわされていました。人はできれば痛みや、苦しみからは無縁で過ごしたいものです。けれど、そうなった人には、そうでない人には見えないものが見えてきます。
「良きサマリヤ人」の話しの創作者イエス・キリストは自ら進んで肉体的、精神的な苦しみを引き受けられました。その生涯は仕えること、苦しみ、痛む人々への献身と愛に終始しました。イエスこそ真の、たった一人のよきサマリア人でした。心やからだの痛みによって、心閉ざして自分の世界に引きこもるのでなく、自分自身の痛みを通して、他者のいっそうの痛みを思いやる、そうした生き方に向くことができれば、痛みは痛みで終わらないかも知れない。これでもう少し痛む人を思いやれ るようになるだろうか。

(2005年09月18日 週報より)

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