信仰の始まり
コリントの信徒への手紙一 1:7-9
弟子たちは彼らの目の前で主イエスが捕らえられ、十字架に釘付けされ、殺され、葬られたその無残な死を忘れようにも決して忘れることは出来なかったことでしょう。そのうえ、主の死に際して、イエスという人など知らないと公言したり、姿をくらましたりの態度をとってしまいました。彼ら弟子たちのとった態度も、イエスから見ると裏切りという他はなかった。けれど主イエスはすべてを許し、かつ、再び弟子として召されるといわれるのです。事ここに至れば《できる/できない》の問題でもなければ、弟子としての適正の問題でもありません。弟子たちにとって、主イエス・キリストがよみがえられた。死からよみがえられる力の持ち主であったと知ったことは途方もない驚きという他はない。いわば感電させられた衝撃を味わった弟子たちはそこから落ちることは基本的に二度となかったのです。そんなに力強い神から、誰が再び脱出しようと願うでしょう。
その主によって弟子と名指された人なら、だれでも許し弟子として招かれるのです。しかもそのことは今も全く変わりはないのです。パンデミックであろうがなかろうが少しも変わりがありません。
先月は教区の女性会のためにSさんによるマリアとエリザベトの受胎告知の出来事を考えさせられました。みんながマリアの気持ちに自分を重ねたのではないですか。一言も書かれていませんが当然それを知ったヨセフの驚きは、不幸そのものだっただろう。マリアもエリザべトも懐妊を知った時には、この上ない不幸としか思えなかったでしょう。ところがほどなくしてマリア、エルザベト、ヨセフそれぞれが、これが神の出来事であり、到底あり得ない事であり、死人が生き返ったくらいに不思議な出来事であることに気づかされて、この出来事を非常に喜んだ。マリアは言いましたよ。
<今から後、いつの世の人も私を幸いなものというでしょう。>
でもベツレヘムでは人口登録のために旅館は客であふれかえっていて、酔客の喧騒はありましたが救い主の誕生を声高に祝う人は一人もいませんでした。嬰児イエスはまぶねに横たえられましたが、何の変哲もないかわいい嬰児として御休みだったでしょう。しかし幼子イエスの誕生には壮大な神の計画が込められていました。人は誰でも救い主を探し求めます。実はそこに嬰児として横たえられておられる方こそ救い主だったのです。遥か数千キロの距離を超えてこの幼子を礼拝しに来た東の博士たちは、すでにこの嬰児こそ世界の救い主と見抜いていました。ベツレヘムの野にいた羊飼いたちも同様でした。
神は度々、われわれ人類を救おうとしました。そのために次々と預言者や教師が遣わされました。彼らを通して奇跡や癒しが行われることがありました。でも往々にして健康は取り戻せても、神を信じることにはならなかった。それでも神はあきらめることなく、我々が心から「父よ」と呼びかけ、信仰をもって、神の民の一人となれるよう待ち構えているのです。
クリスマスは夜の出来事です。羊飼いも、天使も、博士たちも。すべてまず暗闇の出来事。けれどいまこそ、その暗闇の世界に天からの光が届いたのです。使徒パウロはこれを冒頭に読んでいただきましたように1コリント2:9に書きました。
「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に浮かびもしなかったことを神はご自分を愛する者たちに、準備された」
ここに言われていることは今まで、見たことも、聞いたこともない、まして思い浮かびもしなかったことです。キリスト教信仰とは不思議な価値創造的な在り方です。
福音など、聞いたことも、思い浮かびもしなかった人でも、ただ神を愛する者、神を待ち望む人の心に、神は思いを伝達しようとするのです。放蕩息子は親が死にもしないのに、相続分をもらって放蕩につかい果たした。彼は父のもとに帰る決心をしました。その時、立ってゆこうと言いました。
我々も、いかほど今神に遠いところにいたとしても、立って、われわれを待っておられる神のもとに帰って行く事ができるのです。
(2021年08月29日 礼拝メッセージ)