主イエスが愛した人々

少子化がますます進行しています。社会の高齢化が進み、子供が少なくなっていく一方で、子供への虐待は、むしろ増加しています。確かに、かつては隠されていた事実が、人の目に触れるようになったからという一面があり、子供への虐待や老人への虐待は、昔から存在していた。虐待に向かってしまうかなりの人々が、虐待の被害者であることからも、それが想像できるのです。つくづくと人間とは悲しい存在であることを思い知らされます。最もそうされることの恐怖を知っている人々が、そうせざるを得ない蟻地獄におちていきます。そして、多くの場合<表面的・形式的に>社会的地位がついたとか、学問を納めたとか、場合によっては洗礼を受けた、という事実も、何の防壁にもならないのです。

かつて主イエスのもとに様々な人々が駆けつけました。主イエスを非難するためや、陥れる目的で来た敵対者もいましたが、多くは救いを求めて来たのです。人々は自分の過去と、現在をもてあまして、そこから新しくなることを期待したのです。現代と同じです。自分を変えよう、変わろうと願っても、いつも人間は同じところをまわり続けるのです。いつしか年令がすすみ、子や、孫に恵まれるかも知れません。でも、何十年たっても、自分の生への否定的感覚は消えることがありません。そしてそのような否定的な感覚こそ、奇妙に子供に遺伝されていきます。結果として、虐待は連鎖するのです。だからこそ、人々は主イエスのもとに赴きました。
「人の心は金で買える」とか言った<・・エモン>とかいう人が、今度の総選挙で立候補するそうですが、主イエスのもとで、金がスベテと固く信じていた収税人たちは、献身的なキリスト者に変えられていきました。キリスト教信仰を、あなたに、すすめる積極的理由があります。それは、キリストに結びつくと、人は過去から解放されるのです。あなたは新しい人間として人生を再出発できるのです。「洗礼を受けたけど、そうはならなかった。」と言う人があるかも知れません。信じることは、愛することにつながっています。それは<試すこと>ではありません。信じつづけ、愛しつづけ、心をイエス・キリストに決めて、歩み出すところに見えてくる世界があります。そこから、神が実現する世界が見えてくるのです。
旧約聖書もそうですが、新約聖書はとくに、神によって変えられた人々の証言が続きます。あなたのうちの<古き人>は、新しく新創造>されるのです。神の前に謙遜に、へりくだる必要があるのです。だからでしょうか、かつて主イエスの前に出た人々は、罪人、収税人、過去のある人々ばかりでした。その中に権力者、学者、富裕層の人々は極めて少数でした。決定的に自分の弱さに直面して、ぼろぼろの自分の姿に気付かされて、主イエスに救いを求めた人々です。そして主イエスはその人々を確かな御手で包まれたのです。

あなたは、あなたの心と人生をを根本的に再創造される神の愛に共鳴/共振する信仰に生きようとは思いませんか。形式的、表面的なだけの信仰から、一歩踏み出して、主イエスの救いが何なのか、しっかりと見つめてみませんか。

(2005年08月28日 週報より)

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