共であること
信者たちは皆一つとなって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心を持って一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。
使徒言行録2:43-47
イエス・キリストが復活、昇天し、聖霊が教会に注がれてから、教会のたたずまいは一変したのです。人々は生まれ変わったかのように、<愛と喜び>で結ばれたのです。ここに<信者>と表現されていますが、現代の教会で信者といえば、牧師・伝道者でない一般信者と理解されます。でもこの時の教会では、これはすべての教会関係者を指すことでしょう。教会では、人は他者とともに、他者のために生きることを喜びとしたのです。
<信者たちは皆一つになって><毎日ひたすら心を一つにして><喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた>
人は元来、自分にとって損か得かという世界から離れません。確かにそれが経済を活性化させたり、金儲けの動機につながることもあったでしょうが、他人の苦境には目を向けない、自分さえ食べて行ければ、他人はどうなっても気にはしないというエゴイステックな生き方を生んできたとも言えます。それは人がどんなに知的に研ぎ澄まされようが、宗教的であろうが、その部分では少しも変わり切れない人間の暗闇です。かつて日本中を騒がせた新興宗教の教祖が最後に隠れていた○○サティアンの小部屋で札束を抱えた姿で逮捕されたというニュースが忘れられません。そうした世界において<共に生きる>という考え方・生き方は愚かにしか思えないことでしょう。
自分が得をしさえすればよいという考え方の中では、自己中心こそ正しいのであり、他者を思いやる、他者と連帯することなどあるはずはあり得ないのです。そうして生まれた教会では喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美したことです。つまり聖餐を共にしたのです。この聖餐式こそ天を裂いて地上においでになり、罪びとと連帯して、罪びとの罪を担ってくださったキリストの出来事の再現なのです。しかしながら、2000年の教会史の中で、この聖餐式すら教派ごとに分裂し、制度化され、そしてさまざまに線引きがされ、同じキリスト者であっても、受けられる聖餐と受けられない聖餐があるということはなんということでしょう。
信者たちが皆、こころ一つとされて、他者を思いやり、共にパンを裂き、誰かのために力いっぱい労する教会が建てあげられることをあらためて求めたいと願います。誰かを助ける人も、誰かに助けられる人も、なお誰かのために、思いをかけ、祈りを欠かさない教会が実現することは夢でしょうか。
(2014年01月26日 週報より)