無に等しいものとして
日本では新しい総理大臣が生まれました。ことは政治の分野の話ですが、これをテーマに何かを書こうなどとは思っていません。ただ、毎年のように総理大臣が変わりますので<今年の総理は・・・>などという話になりそうです。日本語では「末は学者か大臣か」と言う言葉があるほどですから、学者も大臣もある種、頂点を極めた人という理解があるかもしれません。一方で<ドジョウ>とか<金魚>とか話題になっていますが、総理大臣を魚で言えば、<鯛>か、似ているといえば<ふぐ>かな?と思ったりします。日本の最高権力と言うことであれば、登りつめたい、という人は少なからず居るだろうし、その地位を目指す人が多く居れば、毎年のように総理が変わることも分からないことはありません! でも、それは国民にとってアンラッキーなこと、この上もないと言わざるを得ないのですが・・・。
ところでコリント教会に集っていた人々をさして使徒パウロは
人間的に見て知恵のあるものが多かったわけではなく、能力のあるものや、家柄のよいものが多かったわけでもありません。神は・・・世の無に等しいもの、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。
1コリント1章
と書いています。ずいぶんと大胆な言い方をしたものです。簡単にものを言うのは避けなければならないのですが、基本的に、2000年前の教会と、現代の教会がまったく別物だと考えたくはないのです。信徒たちの心の奥底にあるものは、同じ心がつながっているでしょう。教会は面白おかしいところではありません。2000年前の教会に集っていた人々も、やはり真面目で真実な信仰を目指していたに違いありません。当時の教会には奴隷の身分の人々もいたでしょうし、貴族も居た。ただ奴隷の身分の人であったとしても、その人は教師であったかもしれない。社会的な身分は低くても、誇り高く、教養あふれる人であったかもしれない。
そもそも、パウロ自身教養あふれる、ローマ市民権を持った、インテリ中のインテリであった。しかしパウロは初代教会で大きなリーダーシップを発揮しつつ、自ら<世の無に等しい者>という自己理解をもっていたのではないだろうか。あれほどの高い教養、道徳観を持っていても、尽きるところ<主の弟子達を脅迫し殺そうと、意気込んで・・・男女を問わず縛り上げ連行する>(使徒9:1,2)様な人間だった過去を持つ人でした。彼は、かつてはそうした暴力に身をゆだねてしまうような人間だったのです。そこから神に変えられたのです。
日本に新たな総理が生まれ、多くの大臣達が登場しました。<末は学者か、大臣か>と登りつめたのです。ただ政治家にスキャンダルはつきものです。どの内閣もスキャンダルと無縁に過ごすことが出来ない(?)ほどです。ひとつにはフランスやイタリアと違って日本の政治家には高い道徳性が求められ、それに政治家自身がおいついて行けてないからでもあります。ただ同情も出来ます。地位にともなう途方もない権力と、ついてまわる金銭に、ふとそれが国民の血税であるという感覚が薄れ、それを左右できる既得権力が、つい自分のもののように感じる誘惑が政治家の心を曲げるのです。制度上の問題もそこにあるかもしれませんが、同時にそこに人間の弱さが見えてきます。世襲で政治家になった人も居るでしょうが、当初は国民・国家のためにという使命感を持たないで政治家になった人はいないでしょう。しかし、いつか心が曇る。それは誰がそこに身をおいてもありうる話で、私なら絶対にそうはならないというのは、自分を知らないだけなのかもしれません。
わたしたちはすべて<世の無に等しいもの>に過ぎない。パウロは、自らも含めてそう語り語ったのではないか。私にはそう思えてならないのです。志を立て、大いに制度や法律を学び、選挙という政治的洗礼を経て、議員として活躍して、ついには権力という誘惑に敗れていった政治家は数限りなくいることでしょう。たしかに様々な分野で登りつめた人々は少なくありません。
しかし人間はどこまで行っても<世の無に等しい者>であることを忘れてはならないのです。つきつめれば力がどんなに強力であれ、微力であれ、力のあるところでは人は自分自身も、神も、自覚できないのです。人は無力においてこそ、神と出会うことができます。人は無力を自覚するところで、自分自身を見出すのです。そこに立ち行くまで、人は自分を見出すことができないのです。今、日本社会全体が、無力を経験しているなら、それは再生への大いなる機会が巡ってきていると知るべきです。逆からいえば、それすら感じ取れていないのなら。それこそ、崩壊への何よりのしるしとさえいえます。
(2011年09月04日 週報より)