十字架の勝利

マタイによる福音書 20:20-28

「さて彼らはエルサレムに上る途上にあった。そしてイエスは彼らの先頭に立って進んだ。そこで彼らは肝をつぶし、従うものたちは恐れた。」(マルコ10:32 岩波訳)
肝は肝臓ですが、肝をつぶすとは、非常に驚き、恐れることです。キリストの弟子達という人々も、かつて自分の職業を投げ捨てて、キリストに従った人々でした。大変な決心をして今がある人々です。その人々が肝をつぶすほど驚いたのです。恐れの気持ちには当然不安感が含まれています。エルサレムに向かう主イエスの思い、表情を見て取って、弟子たちは、危険を見て取ったかもしれない。しかし主イエスの生涯の思いが、いよいよここに実現しようとしていた。誰も想像もできない十字架の死。マタイ20章18,19節、イザヤ書53章1-6節を思い起こさせる言葉です。

主イエスはこれからエルサレムで起こることをはっきり知っておられたのです。これを毅然と、だれからも理解されず、孤独の中でその道を進んでいかねばならないことを知っておられました。十字架を回避、避けようと思えば、いくらでも避けられたでしょう。それは主イエスの意思次第なのです。でも十字架は主イエスの生涯の課題、願いだった。主イエスは驚くほどの知恵と弁舌と熱情をもって、人々に語りかけました。深い同情と愛をこめて、人々を癒し、奇跡を行われました。そして人を許しました。でも、それを売り物にしようとはしなかった。人気をかきたてる様な事もしなかった。すべては十字架に焦点を合わせた行動でした。主イエスは従ってくる弟子達には「私についてきたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。」(マタイ16:24)といわれました。これぞ我が生き方という矜持を最後に振り捨てる人もいないわけではないですが。

そして弟子たちは、そのことがさっぱり分らず、事態は深刻化していきます。

ゼベダイの息子達(つまりヤコブとヨハネ)の母が、二人の息子と一緒に主イエスのところに来たのです。そして母親が言うところによると、イエスが王座につくときは独りはイエスの右に、一人は左につけてほしいと願ったとあります。ここまで話が進むと、弟子たちの権力闘争は、単なる出世話にまで落ち込んでいます。主イエスは22節で、「あなたがたは何を願っているか分っていない」と指摘しています。しかも主イエスが、十字架預言をしたあとで、こうした話が、しばしばなされるのです。弟子達の間では権力闘争がありました。だれが一番偉いのかで、言い争いがあったのです。

この世において、権力をめぐる争いがあるのは、社会的地位が収益・利得をもたらすからです。争い合う人々のうちに、尽きるところ、だれが一番偉いのだと判定が下され、それに基づいて他人を見下すようになります。キリストの弟子という、もっとも権力に無縁であってよいと考えられる人のうちにも権力への欲求が表明されます。人間がいかに救いがたく惨めなのか、主イエスの思いや願いと、人間の思いに、どれほどのはるかな距離があるのか知らされるのです。

もっとも尊い神の子の計画が明かされたとき、信仰に無縁な母親を登場させての、人間のあからさまな野心ががでてきます。信仰生活をしていながら、そこに世俗の自己実現と少しも変わらないこの世が顔を表します。信仰といいながら、結局は、自己の欲望を満足することしか考えない愚かな生き方しかできないのです。

「他の10人は、これを聞いて、この二人の兄弟のことで、腹を立てた。」(24節)

二人だけで、母親を動員してまで、ずるいじゃないか。

25-27。これは一見、常識的なことを言われたように受け取れますが、単に道徳的なメッセージではなく、自らの使命にかかわることとして言われたのだと思います。

いよいよ、3年にわたる主イエスによる弟子訓練、主イエスが精魂を傾けて行ってきた弟子教育は終わらんとしているとき、弟子たちは神の国の真理を全く理解せず、主イエスが彼らに期待されたことと全く違った、次元の低いことにしか思いがいたっていなかった。…という事が暴露された。それも単にこの二人の弟子に限ったことではなかった。「ほかの10人のものはこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。」(24節) この時季は卒業式のシーズンですが、弟子たちはまさに3年間の履修を終えて、卒業式間際なのに、彼らは何一つ理解していなかったに等しい。これはイエスの弟子訓練が失敗だったという事ではなく、他人を押しのけ蹴落としてでも、自分が優位に立ちたいという人間のエゴイズムに傾こうとする罪が強いものであると示しています。

主イエスが全力を傾けられた教育。訓練をもってしても弟子たちの心は変えられなかった。教育だけでは人間を変えることはできないのです。弟子たちが本当に神と人々に仕えるために生涯をささげる人間に変えられたのは、十字架につけられ、よみがえられたイエスに出会ってからの事でした。イエス・キリストの教えによってではなく、十字架と復活によって、私たちは罪の力から解放され、新しい人間としてつくりかえられるのです。

キリストの福音に生きる道こそ、人が生かされる生き方です。自分が生き、他人が生きます。わたしたちの願い、実は何を願っているのかさえよく分からない願いなのかもしれない。それにしがみつくのでなく、耳を澄ませて主イエスの語りかけに耳を傾け、主イエスのお考えを知り、主の願いである十字架の救いを受け、喜びに満ちて主に従いたいと願うのです。

(2021年03月21日 礼拝メッセージ)

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