キリストに新しくされ
コロサイ3章5-17節
使徒パウロはここで同じ言葉を繰り返します。<身につける>という言葉です。
<造り主の姿に倣う新しい人を身につけ>(10節)
<憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい。>(12節)
これら全てに加えて、<愛を身につけなさい。>(14節)
着物を着るように、愛という衣服を着る。憐れみや謙遜を自分の服とする。結果「造り主の姿に倣う新しい人」を自分の装いとする生き方が勧められているのです。わたしたちは衣服を着て日常生活を営みます。生まれてくる新生児は衣服を身につけていません。服を着たまま生まれてくる子はいないのです。ですからパウロのこの言葉は、わたしたちが生まれつき身につけてこなかったこれらのものを<身につけなさい>と言っているように受け止められます。
「造り主の姿に倣う新しい人を身につけ」とありますが、<造り主>とは天地を造られ、われわれ一人ひとりを作ってくださった神様のことです。その姿に倣う新しい人を身につけるということは、その主なる神様に倣う、造り主の形に従う、真新しく、神々しく変えられるということにつながるかもしれない。こうした言葉を聞くと思い起こすのは、創世記の冒頭で「神は御自分にかたどって人を創造された。」と述べられていることです。本来、人は神のかたちを持っていた。しかしパウロの言い方では「今は似ても似つかない姿になってしまった。アダム以来、神に全く似ていない生き方をするようになってしまった。」
神はアダムとエバを造り、いのちの息を吹き込んで彼らを生きるものとされたのです。神は人を生かし、生き生きと自由に生きる人生を与えます。しかし、この自由を曲げて乱用した彼らから生まれた兄弟であるカインとアベルは殺し合いとなり、アベルは人類最初の殺人被害者、カインは殺人加害者となるのです。以来、現代日本社会においても殺人事件は家族間によるものが最も多いのです。似ても似つかない神の形になっているのは本当のことです。それでも、人間は本来の人間に回復しなければならないということです。神を信じない、愛に生きることができない、慈愛や寛容を捨ててしまう。そのほうがよほど不自然なのです。
新しい衣服を着るときには、着ていた古い服を脱ぐのです。主イエスに相応しくない古い自分を捨てて、主イエスを着る。
イエスに相応しくない自分とは?
5節にあります。その中核にあって止めを刺すものは<貪欲>です。貪欲によって、人を傷つける、怒りの感情が高まり、自分を貶めるのです。パウロは偶像礼拝だと言います。真の神から人を遠ざけ、神ならざるものを拝むのです。貪欲は単に道徳的な悪ではなく、宗教的にも悪だとパウロは断定します。
アメリカで成人の22%が無保険だといわれる。失業者にとっては医療にかかれなく、思い余ってボランティアの医師たちが、路上で無料の治療活動を始めたのです。無保険に陥る人に対する必要な支援さえ、社会主義的であると切り捨てるところにパウロの言葉に通ずるものを感じるのです。
<新しい人を着る>感覚を磨くことは主の日毎に教会堂に集って、まことの神を仰ぐ、神を受け入れる、そこに喜びと慰めを見出して、一歩一歩の歩みを整え直すということでしょう。
16節ですが、ある注解書では「互いに教え、さとしあい褒め称えあいなさいと受け止めるべき」と述べられていました。万が一、諭すべき相手に間違いがあったとき、怒りに任せて相手の悪を打ちのめすというのは、忠告にはなりません。諭す側に賛美の歌心が宿っていて、出来事に向かって神への肯定的な思いがあるならば、諭す言葉は相手の心に通じるのだというのです。
さらに<これらすべてに加えて、愛を身につけなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」(14節)
この愛のきずなとは何か。それはキリストの平和です。しっかりと結び合わされて揺るがない、神とわたしたちの繋がりです。死ぬという状況があっても、その死に打ち勝つ平和があるということです。われわれはそれほど神に愛されている。神の平和はそれほどの大きな平安を与える。
死が迫っている人が、静かに堂々と死を迎える姿を何度見送ったでしょう。
そのような神の愛を自分自身の装いに身にまとえることは、賛美せざるを得ない状況なのです。このキリストとの平和をいただいている人こそが健やかなのです。おおらかに、しなやかな心で、声を合わせ歌うことが出来る生き方を日々歩んでいけますように。
2023年9月17日 礼拝メッセージより