たとえを語られる主イエス

マルコ福音書 4:21-34

ともしび、種まきのたとえ

今日の聖書、どんな印象を持ったでしょうか。説教題も、小見出しもそうですけども、「例えを用いて話す理由」とついている。これ、言ってみると間接話法みたいな言い方です。間接的なものの言い方です。分からないことはないのですけれど多少の説明が必要な気がしてならないのです。今日の言葉、「灯火」と「寝台」。全然関係がない。けれども話の冒頭は、そういう言葉から始まっていきます。

「灯火は升の下に置いたり、寝台の下に置いて隠してはならない。」
イエス様がここで語っているのは信仰のことであります。何かの理由で御言葉を恥じたり自分の信仰を隠して社会生活をするというのは、どんな時代でもあったことだろうと思います。現代でもあると思います。「灯火」というのは「信仰」のことです。私たちはそれぞれに信仰を抱いて日々を歩んでいるわけですけれども、その信仰をいつも掲げているわけではない。時にはちょっと脇の方に置いたり、後ろに置いたり、隠したりというようなこともあるかも知れません。
この聖書が書かれた時代はローマの時代です。まだまだキリスト教はマイナーな信仰だったと言えると思います。そうした時代の中で信仰を掲げるということは、あまり楽なことではない部分もあったかも知れません。自分がキリスト教徒であることを表明できない人がいたと思います。現代でも自分はキリスト教徒であるとカミングアウトすることは勇気がいるということはあり得るかもしれません。信仰者であることを心のどっかで隠しているといいますか・・・。灯火は「高く掲げるためなのだ」「高く掲げてほしい」とイエス様はおっしゃっていると思うのです。
話の中で「升」というのが出てきます。「升」も「寝台」も死語になりつつあると思いますがどうでしょうか? 升は真四角で、お米を測ったりお酒を入れたりする器を想像しますけれども、昔のユダヤでもこの升は使われたらしい。ロウソクを長く灯しているとススが出てくるのです。安いローソクほど煙(スス)が出る。昔のユダヤの家では窓がなかったらしい。ですから火を消す時には煙を抑えるために升をか被せた。

こうした一連の話の中で、灯火を掲げることと、種まきの話がつなげられています。マルコ福音書の4章の13からも種を蒔く人の話がで出てますし、マタイ福音書の中でも同様な扱いがされている。いわば「灯火そのものである主イエスが私たちの心に宿ってくださった。」ということ。主イエスは、どこに蒔かれたか分からないほどに地面の中に蒔かれた目立たない種です。けれどこの方こそ、大きく成長して30倍60倍100倍の収穫をもたらす。
「隠れているもので顕(あらわ)にならないものは、秘められているもので公にならないものはない。」(23節)
「成長してそれはどんな大きな野菜よりも大きくなり、葉の影に空の鳥が巣を作れるほど大きくなっていく。」(32節)
結果は豊かな収穫として必ず現れるのだ。そうなるからわたしを信じなさい。

30倍60倍100倍という実りの違いは、13節から20節で聞く側の態度に論点が移ります。「聞く耳のある者は聞きなさい」
そうやって聞けば信仰の収穫というものは必ずできる。30倍60倍100倍の豊かな実りが得られる。その一点に収穫のすべてがかかっている。だから24節に「何を聞いているのかに注意しなさい」という言葉が続いていくのです。

「あなた方は自分の量る秤で量り与えられ、さらにたくさん与えられる。」(24節)
聞き方によるのであって、種そのものの優秀さとか力ではないのだとイエス様がおっしゃるのです。ですが次に不思議な言葉が書かれています。「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまで取り上げられる。」(25節)
これが前半の言葉の締めになっています。この言葉は貧富の差が激しかった当時の社会をそのまま描いた言葉だったようです。現実かどうかよく知りませんけど、現代でも1%の富む人々と99%の貧しい人々がいると言われたりします。日本では「2,000万人の非正規労働者は月収20万円以下の生活を強いられている」と新聞に書かれたりします。この世の経済の現実は、現代も福音書の時代も同じだったということになるかもしれません。聖書はそれを肯定的に語っているような響きがあります。もちろん信仰の話としてです。けれども信仰の話ならなおのこと、豊かな人間から取り上げて貧しい者に与え、不公平を是正することがイエス様らしいのではと思います。
神はしばしば、信仰がゼロに等しい人(キリスト者になろうという意向の全く無いパウロ)を回心させ世界伝導に遣わすようなことをなさいます。信仰においても「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまで取り上げられる」。持ってない人間にとっては、いたたまれないような言葉が書いてありますけれども、それなりの意味がある。信仰生活が安易な御利益信仰に流されて、いつのまにか神の言葉から遠く離れてしまう。そして「最近、神の祝福が感じられないなぁ」などと言うようになる。神は、神なきものを覚えられる方ですから、自分の身勝手な生き方に気付こうともしないで「神は不公平だ」と言う生き方には、くみしない。

種蒔きの話が4章14節にあります。「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」
神様は種蒔きをします。「神の言葉」はイエス・キリストのことです。「種を蒔く人は、神の言葉(イエス・キリスト)を蒔く」のです。
伝導は効率とは無縁です。私たちは効率を度外視して、みことばの種を蒔いていきます。実際に伝導してみると虚しさや失望は避けられないのです。そういうものだと思います。徒労や失望は伝導者を生き諸相させます。
これは現実の話です。私より若く、数年前まで教団委員長をしていた牧師と話をしておりました。彼はとても元気の良い弁舌の爽やかな青年牧師です。こう言っていました。「毎日睡眠薬が欠かせないんだ。それがなければ眠りにつけない。」
ある牧師会でのことも思い出します。私たち夫婦以外の大半の人々が睡眠障害あるいは睡眠薬を欠かすことができない。驚きました。

福音書が書かれる時代、教会ができて3,40年経った頃、エルサレムは崩壊しました。教会も壊滅的な打撃を受け展望は立たず、新しい方向を模索していました。それこそ、ともしびを升の下や寝台の下に置いて、伝導から離れる伝道者たちが続出した。どうすべきか。「聞く耳のある者は聞きなさい」(何を聞いているか注意しなさい)と語られます。

33,34節で「イエスは人々の聞く耳に応じて、たとえでみことばを語られた。同時にご自分の弟子たちには密かにすべてを説明された」とあります。イエス・キリストが語られたのは「神の国が始まった」ということです。人は、時が変わってゆく、歴史が別の方向に動き出していくことに、ついていけないことがあります。イエス・キリストは「神の国にエンジンがかかった」と言われるのです。神の側では明らかなことですけれども、弟子たちの目から見るとそんな兆しはどこにも見えない。どこにもそれらしき出来事は目に映らない。
確かに弟子たちは種を蒔き続けています。でも根付かない。根付かないどころか、蒔いた種をカラスに奪われてしまう。種が枯れてしまうこともあります。むしろその方が多いように見えてしまう。伝導する側は眠れない、苛立つ。自信も失います。この物語に対する主イエスの答えは「豊かな結実は種そのものの中に偉大な力が秘められている。それは種まく者の努力や力ではなく種が芽吹いて成長し結実される。それは神の御心なのだ。」
「どうしてそうなるのかその人は知らない」(27節)
「土は一人で実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、ついで穂には豊かな実ができる。」(28節)
種まく人間が偉いから結実するのではないのです。やり方が上手だから実っていくというわけではありません。神が偉大だからこそ結実する。神の国の実現には段階があるかもしれない。そうであれば私たちは、結果が出ないと焦ったりいらだったりせず、神がしてくださっていることを喜んで受け入れ、一歩一歩、待ちながら種を蒔き続ける。神の国は完成に向かって動き出しているのだから。

この日々も、やっと見通しがついたと思て、教会もいろいろな規制を外し、もう一歩足を進めるべきかということを考えている中で、オミクロンがものすごい勢いで流行ってきて、あっという間に今のような状況になってしまう。どうなっているんだと思いますけれども・・・。それにもかかわらず神様は種を育ててくださる。「神の国にエンジンがかったと言われるのです。神の側では明らかに見えている。ですから、イエス様がそうなんだとおっしゃるのでしたら「アーメン」と言って、応答していくのが私たちのとる態度ではないでしょうか?

お祈り

神様、この寒さの中で礼拝に足を向けてくださる人、心を向けてくださる方々が沢山いる事を本当に感謝します。どうぞ困難は様々にありますけれども、しかしあなたが私たちのことをご覧になり眼差しを注いでいてくださることをありがとうございます。どうぞあなたの御心に添う一歩一歩でありますように、私たちの上にあなたの顧みがありますように助けを与えてください。どうぞ困難な中にいる人々の上にあなたが届いてくださいますように心からお願いを致します。御手に委ねます。イエス・キリストのお名前によってお祈りを致します。アーメン。

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