神の国は‘ここだ’
マタイによる福音書 12:22-32
以前イスラエル旅行をした人からガラスの中に入った砂を見せてもらったことがあります。説明には「これはネゲブ砂漠の砂です。そこは、今は豊かな緑の沃野となっています。」と書かれイザヤ書の35章が書かれています。イザヤ書が言う荒れ野こそ、このネゲブのこと。イスラエル共和国は建国以来、その開発に力を注ぎ、砂漠は農園、果樹園に変貌しているといわれます。けれどヨルダン川西岸地区もガザも、パレスチナ人が2000年も居住していた場所であったのです。ユダヤ人はこれをイザヤの預言の成就、メシア時代の到来と見、相当数のパレスチナ人から土地を収奪したのです。それは一方的な危険な見方でしかありません。実質的にはパレスチナ自治区と言われるヨルダン川西岸区域も多くのユダヤ人入植者が占拠するという結果を見ることができます。
多くの人々はパレスチナ人=アラブ人=イスラム教徒と考えますがパレスチナ人のかなりがクリスチャンです。ベツレヘムも、ナザレも、ヘブロンもエルサレムも、基本的にはパレスチナ自治区内にありますし、長い歴史を見つめてきたキリスト教会も存在します。そして主イエスならアラブ人をすべて追い出してユダヤのパレスチナにせよとは言わないと思います。
聞いてください。
主イエスは言われました。すでに神の国はみんなのところにきている。来ている以上神の国はみんなの心にあり続けている。神の国をもたらすのは神の霊です。
しばしば主イエスはファリサイ派と論争しました。論争は不毛なことを味わされます。理屈は理屈を生み、理屈で言い負かされても、感情は納得しません。ファリサイは論争するたびに主イエスに言い負かされましたが、彼らが納得したでしょうか。その結果、ファリサイが主イエスを信じるようになったでしょうか。それをわかっていて主イエスはなぜこれまで激しくファリサイと論争したのでしょうか。
ファリサイ派の人々は、律法を厳格に守る人々でした。自分自身それを誇りにしていた。内心そう思っているだけでなく、そう信仰生活を守れない人々を見下していた。宗教とは、人が神を信じることで、人が神に結ばれ、そして、人と人が結ばれる生き方を可能にさせる生き方です。
マタイ12章には安息日論争が記されています。安息日を厳しく守ることを金科玉条として、守れない人を裁いていたファリサイにとって、主イエスの言葉や振る舞いは、たとえ人を長い間の束縛から解放することであっても、気に入らなかった。ファリサイは主イエスを否定します。しかし<癒しが実現した事実>は否定することができません。かといって主イエスの業が神からのものと認めることは、彼らのプライドが許しません。そこでイエスの業は、悪霊の頭ベルゼブルによって悪霊を追い出しているのだといったのでした。
主イエスはその言葉の矛盾を指摘します。悪霊の頭が悪霊を追い出そうとしても、それは親分と子分の同士討ちだろう。だから悪霊の力は消えやしない。つまり悪霊を追い出すのは神の霊によるしかないではないか。そして私が神の霊によって、悪霊を追い出しているのだ。だから、悪霊などではなく、<神の国が>あなた方のところにきている。
だから…主イエスは言います。すべての罪も、神を汚す言葉も、人の子に言い逆らうことも許される。主イエスはともに十字架につけられた犯罪人すら許しました。だが許しさえ否定する罪は許されない。主イエスは自らを裏切ったイスカリオテのユダすら友と呼びました。
果たして許されない罪などあるのだろうかと思います。主イエスの十字架はすべての罪の許しの宣言のはずです。すべての人は許しを必要とするし、主イエスの許しは観念にとどまらず、許された人はその体と心にみなぎる自由と喜びに満たされます。しかしたった一つ許されない罪があります。それは許されるということを信じない態度です。罪の許しなどありえないとする人間の傲慢です。
キリスト者でさえもファリサイ化することはないわけではありません。けれど主イエスが12:28で「私が神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなた方のところにきているのだ。」
数日前の新聞に宮城県・石巻で震災に出会った当時高校生の女性の後日談が書かれていました。以前から引きこもり、過食.時に睡眠薬を大量に飲むこともあった女性が大震災に巻き込まれたのです。引きこもっていた彼女は否応もなく避難生活に投げ出されアルバイトをすることになり一人暮らしに移ります。ある日ふと入った児童施設で何気なく一冊の詩集を手にします。まどみちおさんという詩人が電車の中で赤ちゃんに笑いかけられた喜び・幸せを詠んだ詩でした。「その笑い声を いつのまにか 胸にかかえていて それで 夜道の足もとを てらすようにしながら わたしは急いでいるのだった」
彼女は泣いている自分に気づいたそうです。『ささやかな幸福や希望が私の行くみちを照らし背中を押してくれでいるんだ』
目に浮かぶ赤ちゃんの笑顔が自分を励ましてくれる友人や友人の母の存在に重なった ・・・そうです。彼女はこの感動を起点にして、エッセエーや詩を書き始め、今年(2021年)の1月にはウェッブ雑誌で自作の詩が佳作に選ばれたそうです。
鬱々とした日常が、それを上回る大震災に出会って苦しんでいた女性が、一人の詩人が、赤ちゃんの美しい微笑みに感動に包まれた。その詩が一人の女性を救ったのです。昨日と少しも変わり映えのしない今日。主イエスの神の国は私たちのもとに届けられる。
(2021年02月28日 礼拝メッセージ)