福音は国境、国籍をこえて

使徒言行録11章4-18節

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今日与えられている箇所は、10章から始まるコルネリウスというローマの軍団の百人隊長の物語です。コルネリウスはローマ軍の職業軍人ですが、同時に<信仰心あつく、一家そろって神をおそれ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈る(10:2)>人でした。どこの出身なのかは分かりません。ことによると、ローマに征服された地域の人で、奴隷か傭兵から身を起こした辺境出身の人だったかもしれません。それは何も書かれていない。でも、いつのときか、パレスチナのカイサリヤ基地に勤務になり、聖書の教えに深く心とらわれて、神を信じる人になっていたのです。コルネリウスはある日の午後3時の祈りの時、幻の中で、ヤッファに来ているペトロが、皮なめし職人シモンと呼ばれる人の家に来ているので招きなさい…という夢を見るのです。

コルネリウスの使いがヤッファに到着するころ、ヤッファにいたペトロは夢を見るのです。四隅を紐で結ばれた布の入れ物が天から下りてきました。見るとあらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていたのです。<あらゆる>という言葉が入っています。食べてはならないとしていた食材も含めて天から降りてきたのです。そして天から声がかかります。「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」(7節)

現代の料理人であれば、美しい料理に仕上げることでしょう。でもペトロの時代のユダヤ人はそうはいかなかった。彼らは食べていいものと食べてはならないものを区別していたのです。そうした律法の原点は出エジプト、砂漠の放浪の時代です。水はもちろん、食べることにも事欠く40年もの日々。空腹が続けば、道徳も精神も人間性も薄れていくのです。
砂漠でイスラエルの人々は「ここでこそ、より人間的で、道徳的な歩みを目指そう」と心に決めたのです。人々は律法を作り、食べてよい物と食べてはならないものを区分けしたのです。欲望の中心である食欲も、本能のままに食べることをしないで、時には飢えても、本能だけに生きないで「神によって生きる。」「神に生かしていただこう」と考えた。その最初の動機は立派だった。しかしやがて、そうしない民族への差別と蔑視につながっていったのです。それは神の意思とは正反対の、むしろ神の思いへの裏切りでした。

夢の中でペトロは、「主よ、とんでもないことです。清くない物、けがれた物は口にしたことがありません。・・・」(8節)
すると即座に天から言葉がかかり、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」(9節)

11章においてエルサレム教会でペトロは、割礼を受けている人々、つまりユダヤ的伝統を非常に大切にしていたクリスチャンから厳しく非難されます。「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした。」(3節)
ユダヤ人にとっては、基本的に孤食は無いのです。食事は心許している人々と共に分かち合う聖なるもの。同じものを食べるからこそ同じ体に造られるのです。日本人も食事を始めるとき、合掌して、「戴きます。」と食べ始める文化がありました。飽食や食べ放題が当たり前になってしまって「戴きます。」も「合掌」も少し遠くになりました。

多摩ニュータウンが建設され、人々が流れ込んできた時、「鍵一つで、他人と付き合わないで済む自由があるから、ここに住むことにした…」という考えをもつ人々もいると聞いたことがあります。数のうちにはそうした他者のことなどまったく眼中になく、自分ひとりの・孤独の世界で生きたいと考える人々もいたかもしれない。いってみれば一種の積極的引きこもりといえるかもしれません。人は信仰によって神と結ばれ、そこから広がる人間的な生き方が人生に自由と喜びをもたらすのではないでしょうか。けれど神の言葉からずれ落ち、信仰が単なる伝統・習慣の中に持ち込まれると、信仰は単なる自分自身の正しさの表明、自己主張になっていきます。それは自分自身と同じように考えない人々への差別や排除につながるのです。しかしそのペトロが、神の言葉に導かれてコルネリウスの家を訪ねます。ここで始めて異邦人に伝道がされたのです。

一連の夢から始まり、ペトロが深く教えられたのは、「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」(10:34,35)
それだけではありません。その人々の上に、聖霊が降ったのです。(17節)

この出来事は。初代教会にとって一つの大切な転換点になったといわれます。それまでは基本的に福音は、ユダヤ人によって、ユダヤ人にだけ伝えられていた。異邦人がキリスト者になることはまったく想定外のこと・・・というよりあってはならないことでした。ペトロもコルネリウスの家に行くまでそう考えていた。ペトロや初代教会の人々があくまでそれにこだわり続けたら、教会の歩みは全く違ったものになった。でも神はそう言われなかった。神は異邦人をもきよめる。神の働きは人間の判断、習慣、伝統を超越するのです。

ペトロの報告を聞いた割礼を受けたキリスト者たちはショックを受けたと思います。それまでも異邦人がユダヤ教を受け入れ、信ずることはあった。その際、異邦人たちは割礼を受けるのです。それはある意味でユダヤ人になることを意味していました。そして教会もそれを受け入れるべきと人々は考えていた。割礼を受けてユダヤ人になるのなら、キリスト教会を受け入れてもよいと考えていた。そうであれば、ユダヤ社会はキリスト教会に不満を表明することはないだろう。

しかし、神は「割礼など受ける必要はない」と夢を通してペトロに語られたのでした。神は異邦人もユダヤ人も隔てないというのです。教会はそうして、すべての人を神の民としますが、歴史の中では、教会が日本的キリスト教を掲げて、次々と教団の指導者たちが伊勢神宮を参拝したのです。同時に中国や韓国・朝鮮をはじめとする土地を取り上げたりアジアの人々への植民地化に目をつぶったのでした。 

キリスト者は神が清めた物を清くないなどと言うのはやめよう。時に伝統的、習慣的に受け止められてきたことも、本来の意味や動機から異なってきていることもあるかもしれない。信仰は人を人間的にします。ペトロはきっと、ローマの軍人コルネリオと、彼の友人の軍人たちと教会で兄弟として結ばれた。
これがキリスト教が、ユダヤ教に別れを告げて、本当のキリスト教として自立した第一歩の証しでした。人間には優劣も、人種や民族の差別や偏見はあってはならない。それは神の意思を踏みにじる行為なのです。差別は今なお様々な形があります。障碍者、女性、在日コリアンの人々。

ペトロもこうした展開になるとは思っていなかったでしょう。しかし神の言葉に促されて、自ら信じてやまなかったあり方が、根本的に間違っていたことに気づかされたのです。たとえそれが聖書の言葉であっても、食べ物や人間を聖と俗に区分するなど間違っているのです。教会は本当に開かれた交わりであって、人間の自立と解放に取り組む群れになるように働かなければならないのです。神は人を偏り見ない。
ただ、これは頭では分かっていることです。しかし歴史の教会は、数え上げれば上げればいくつもの差別を行ってきた。差別に限らない。だからこそ神は人に対し時に道徳的に、信仰的に、気付きを与えてくださるのです。示しを受け、促されて・・新たな人間として人は歩み出します。それは神があなたの心に触れるときです。それがアブラハムにとっては75歳、モーセにとっては80歳の出来事でした

  「ためらわないで、一緒に出発しなさい」(10:20)という神の示しに素直に、決然と委ねるのです。その時、人は変われるのです。教会はユダヤ教から、キリスト教に変えられたのです。しかし、もう一つの態度をとる選択肢もあったのです。神を無視することです。神は人に示し、促しはするけれど、命令はしません。それはあなたが決めることだからです。ユダヤ教の保守派は、未だに世界中から非難を受けながら、パレスチナ人差別を行っています。2000年経っても変わらない。いや、変われない。あなたはどちらを選ぶのですか。

2023年7月2日 礼拝メッセージより

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