神の霊を宿すライ者の体
マルコ福音書 1章 40-45節
小見出しが「重い皮膚病を患っている人を癒す」と書いてあります。今年の聖書日課はマルコによる福音書の前半のところを、うろうろしながら一つ一つの癒しの記事を、なめるように追っていくような気がします。
今日は重い皮膚病にかかった人の癒しの物語。以前の訳では「ライ病人」になっていました。いろんな考えがあって「重い皮膚病」という形になったんだと思います。一番新しい岩波書店の翻訳があり、それによると「ライ病」に戻っている。「重い皮膚病」と「ライ病」とでは語感が違うわけで、そこに込められた社会的な意味合いとか歴史的な意味合いからすると「重い皮膚病」では伝わらないんじゃないかという気がしてなりません。もちろんそういうことを考慮しての「重い皮膚病」になったんだろうと思いますけれども、やはり「ライ病」の方が近い。聴こえ方、受け止め方によっても「ライ病」に近いものではないか。「重い皮膚病」になるとわからなくなる。ですから「ライ病」として受け止めていったらいいのではないかと思えるのですけれども、これはいろんな意見があるかもしれません。
私はこのライ病について「キリスト教会がどのように理解してきたか」ということが一つ問題があるような気がしてならないのです。この聖書の出来事から説教を聞いたことは何度もあります。私より、もっとえらい牧師先生がライ病について語る。どういう語り方をするかというと、ライ病と罪を類比するのです。ライ病と罪の共通点を問題にするのです。例えば、「ライ病は肉体を腐らせるように罪や精神をも犯してしまうものだ」「伝染する」「遺伝する」と堂々とこの講壇の上から言う(ライ病は伝染するのかもしれませんけれども、その伝染力が非常に弱いと聞きました)。だから罪も伝染するんだ。罪が伝染するようにライ病も伝染していく。ライ病にかかった人の否定的な意味合いをそこで強調していく。
結局、ライ病についての否定的な考え方をキリスト教会も受け入れて、ライ者の人権や尊厳を踏みにじってきた歴史があると思います。そういうことは反省していかなきゃいけないこと。むしろキリスト教会もそうしたライ病者についての苦しみ(重荷)を増すようなことをやってきたことについて謝罪すべきだろうし、教会全体としてそういうものは受け止めるべきなんじゃないかなというような思いがしますけれども。でも何度も聞きました。よそから来た説教者の方が、この由木教会の講壇から喋ったこともあります。やはりそういう受け止め方がキリスト教会全体としてあったのですけれども、今日のこの聖句を見ますと地上の主イエスは特別な力ある者の権威、権威ある者としてここに立っておられる。地上の主イエスはそういう方であるということが、第一に言われなければならないと思います。
1章は癒しの出来事に満ち満ちています。「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく権威ある者としてお教えになった。」(22節)
権威ある者として主イエスは癒しを行い、またそこで説教をなさったということなのです。今日のこのライ者の癒しについても私たちは主イエスが権威を持って、この癒しをなされたという面をもう一度、襟を正して受け止めなければならないのではないか。イエスが特別な力ある者、権威ある者として教えを述べられた。それを鼻であしらうような聞き方はないと思います。主イエスの癒しへの力は、ある決定的な突出した力を持つものとして描かれていると思います。それを我々は2000年後に福音書としてその出来事を聞くのですけれども、私たちも変わらぬ思いでイエス様がここにいると思い、その思いを受け止めてこの物語を後追いするのでなければならない。確かに医学が未発達なその時代、主イエスは人々の願望に答えて下さったのだと思いますけれども、ただ人々の願望のままに動いたのではないということだと思います。
マルコによる福音書において、この癒しに先立って1章の29節から「カファルナウムで汚れた霊に取りつかれた人が癒やされる。そして多くの病人とともにシモンの姑が主イエスによって熱病から癒された」という出来事が書かれている。このカファルナウムの家というのはおそらくペテロの家だろうと言われています。今日の箇所に悪霊のことは言われていませんけれども、そうした病気の理解は変わらない。主イエスにとって癒しとは悪霊を追い出すことだったと思います。
ルカの11章の18節から20節に「しかし私が神の意味で悪霊を追い出しているのであれば神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」
イエス様は単なる治癒者ではない。悪霊の背後にあるサタンとその悪の力をフォローしつつ主イエスとともに救いの時が始まっているという揺るぎない確信が主イエスにはあったのだと思います。
別の福音書で主イエス様はこうおっしゃってます。「今日も明日も悪霊を追い出し病気を癒し3日目にすべてを終える。」
妙な言い方ですけれどもイエス様にとってこの癒しへの働きというものが非常に重大なことだった。
一つは、主イエスは単なる奇跡の執行者、治癒者ではないけれども悪霊との対決の勝利者であるいうことは事実であります。また主イエスという存在を理解するのは十字架と復活という視点があったからこそイエス・キリストを理解すべきなのです。イエス様とサタンとの最終的な戦いは十字架における戦いですけれども、サタンとの戦いは主イエスの全生涯に広がっていた。オカルトのように聞こえてきます。でも私たちのこの時代、悪霊との戦いというのは、言葉は非常に古臭い言い方かもしれませんけれども、見方によればオミクロンも悪霊の一つの働きの結果であるかもしれません。
最近見た、ある人権団体の報告で私はびっくりしました。この時代の世界です。21世紀に、数十万から数百万の子供たちや女性たちが人身売買の結果、例えば売春組織などで奴隷的に追い使われていると伝えられています。日本でも北朝鮮による拉致の問題などが大きな問題ですけれども、そんなことが行われてしまう現代という時代は悪霊がそれなりに生きている、その働きがあるということ以外の何ものでもない。我々が限に生きているこの世界で我々の想像を超える腐敗や、他人の命や存在を踏みにじる、人道にもとる行為が横行しているのは「なおサタンの働きが絶え果てたのではない」ということを感じざるを得ないのです。
主イエスの病の癒しは罪の赦しをもたらすのです。罪と病がサタンの支配によるものと考えられていました。現代において病気のかなりがストレスからくるものと考えられています。精神的な原因で体に変調が来ることはいくらでもあります。罪から解放されて病が癒される。当然のように起こってくる一つの出来事です。キリストはサタンに勝利した。人が一時的にサタンに心を委ねることがあったとしても、主イエスは根源的に悪の力を克服してくださる。罪を赦し魂に癒しを与えてくださる。「イエスは深く哀れんで手を差し伸べてその人に触れ『よろしい、清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。」(1章 41節)
重い皮膚病にかかってた人です。私たちの言葉では「重いライ病」だったかもしれない。手も足もライ病にかかっている人々に対して主イエスは深く哀れんで手を差し伸べてその人に触れた。皆さんはライ病の方と握手したことありますか? 私はあります。病気は癒されているわけですけれども、指が3本しかなかった。辛い人生起こったんだろうなと深ぶかと思いました。その時はその方から様々なお話を伺うことができました。高幡のカトリック教会での出来事でした。
イエス様は、まさにそのライ病そのものにかかっている人と握手をして、「よろしい、清くなれ」
旧約聖書の時代からライ病人は神に呪われた者、神に捨てられた者、社会から排除された者として受け止められていた。日本ではライ病人は天刑病(てんけい病「天が刑罰を下した病気」)と言われている。まったく的外れです。でもライ者たちはそうして人生を奪われていきました。世界中のライ病の人々が人生を奪われていった。本当に大変な病気です。
この病人は街の外に住むことを強要され街の中に住むことは許されなかった。街の中を歩くときは誰も近づかないように「私は汚れたもの、私は汚れたもの」と叫ばなければならなかった。レビ記の13章の45節46節にそう書いてあります。律法で決められているのです。その人々は街中に行ってはならない。行くとすれば「私は汚れたものです」と大声で叫びながら通らなければダメだということ。近づくだけでユダヤの律法に反する人として扱われた。ましてや手を伸べること、触れる事は律法に反する事。主イエスはその人に対して堂々と手を伸べて、その人に触れたのです。鳥肌が立つような、戦慄を覚えるような時です。41節で「イエスは深く哀れんで手を差し伸べてその人に触れる」と書いてあります。その前の40節では「御心ならば私を清くすることがおできになります。」
こういう願いを持つことも非常に勇気のあるライ病者だと思います。主イエスにそう言って近づいていった。
「主イエスは深く哀れんで」の「深く哀れんで」は先ほど言いました、岩波訳では「腹わたが、ちぎれる思いに駆られて」と書いてあります。また別の訳があって「怒りに満ちて」と訳されているのもあります。もちろん怒りとはサタンの支配についての怒りです。弱い立場に置かれた人を一層抑圧する社会が、そういう人々を抑圧していく。排除していく。そういう社会に対する怒りもあるかもしれない。日本においてもごく最近までライ病者への不当な差別は続いていた。矯正の断酒、不妊の手術、中絶が行われていた。ライ者の人々は子どもを持つことさえ禁じられた。それは遺伝するから。何の根拠もない言い方ですけれども、そういうことでしょ。
病人に対する厳しい激しい憐れみはサタンに対する激しい憤りでもあった。この両面にイエス様の姿が鮮やかに表れています。まさに憐れみの主です。戦いの主です。勝利の主です。手を差し伸べ、その人に触れた。これはイエス・キリスト、主イエスだがらこそ可能な態度であったと思います。こういう思いを引き出したのも、社会の99.99%の人々がそんな行動することがありえない状況の中で主イエスは彼に触れたのです。主イエスは病人と同じ立場に立たれた。歴史や社会の状況で途方もない苦しみに立つ人々と同じ立場に身を置いて、そうした想像力を持つことはとても難しいことです。でも主イエスはそうされた。主イエスは、あたかもご自分をライ者の苦しみ、身近の苦しみのように受け止めた。病人と自己を同一化してくださった。
一般の人々は自らがライ病人でなければ彼らはどんな苦しみを受けようが、どんな差別を受けようが、隔離されようが、共同体から排除されようが、それは自分とは関係がないものと考えてきた。日本の社会もそうだった。ライ病の特効薬は日本の戦前、既にアメリカでは一般化していたというんです。でも日本では普及しなかった。何十年も遅れた。なぜか。ライ者を支える社会的な構造というのがあって、それで生活をしている人々が多かったからだと後に説明されたことがあります。
主イエスがご自身を十字架につけて復活してくださった。それは罪人である我々がそこで十字架につけられ復活させてくださった。主イエスが我々と一つになってくださった。主イエスはそうして私たちと一つになってくださった。私たちに救いをもたらしてくださった。このライ病人は我々自身のことかもしれない。主イエスは私たちに触れてくださる。あなたに触れてくださる。主イエスこそ計り知れない想像力を働かせてくださり、私たちの社会の悩みを理解し、私たちを理解し、苦しみを分かち合ってくださる。そういう方でいらっしゃる。そういうことを改めて確かめるように、この出来事は主イエスによって行われたものだと理解すべきだと思います。
祈り
神様。主イエスが一連の悪霊との戦いの中でその頂点とも言うべきライ者の癒しを行ってくださいました。誰もがこのライ者の苦しみを理解せず自分がそれにかかっていなければいいというだけの、そのような大勢の中で、主イエスがたった一人ライ者に近づき、触り、受け止め、癒してくださいました。どうぞ私達の一歩一歩の歩みの中にも、あなたはそのようにして私たちを救ってくださることを覚えることです。どうぞ私達の歩みの上にあなたが望んでくださいますように。あなたの恵みをすべての人々に分かち合ってくださることをお願をいいたします。どうぞ困難の中にある様々な病者の人々が、この時代にもおりますけれども、どうぞあなたがその一人一人にみてをとって近づいて下さることができますように。私たちの歩みの上に
あなたの顧みがありますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。