互いに愛するなら

ヨハネ福音書13章31-35節

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30節に「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出ていった。夜であった。」とあります。
同様な表現なのですが、「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。」(27節)
イスカリオテのユダが主イエス様からこうして戴いたのは、最後の晩餐のパンのことでした。屋外のもう夕闇迫るとき、どこに出かけて行ったのでしょうか。よく読むと、最後の晩餐のパンを最初に戴いた弟子はユダであることがわかります。最後の晩餐で主イエスが語られた内容の多くは、ユダを案ずる言葉でした。そして主イエスは弟子たちの足を洗われました。むろんユダの足も。そしてユダの足は、主イエスを十字架に賭けるために控えていた祭司長・律法学者のところに一直線に駆け出すのです。そこから十字架への歯車が回りだすのです。

イエス・キリストは十字架にかからねばならなかった。人の心の内側には人間が理性でコントロールできない罪の法則が働いている。大半の人々は、「自分は、神の子を十字架に追いやるような悪質な人間ではない。」と信じてやみません。人は自分という存在を理解していない。自分の内には<われならぬ我><われ知らぬわれ>が居座っているのです。そうした自分を見ようとしなければ、人間はより楽観的でいることができます。
自分は正しい。悪いのは他人だ。・・・つまり
「自分は神の子を十字架に追いやるような者ではない。」
「イエス・キリストの十字架は自分にとって無意味であり、不必要だ。」

この十字架を語るに際して、ヨハネは<栄光>と言う言葉をしばしば語ります。十字架という暗い出来事と、神の栄光は何の関係があるのかと思いますが、神がそこに存在なさることは、ただ天の高みの玉座に座っているだけではないのです。神様は気が気ではなくて、人間の訴えに答えて歴史社会に自らを現されるのです。神様が自らを現す出来事が神の啓示なのです。クリスマスの出来事がそうでしょう、イエスの生涯がそうですし、復活の出来事がそうです。

生前、礼拝に熱心に出ておられたアタリさんが難聴になって、礼拝中に苦労していた。アタリさんは祈りの人で、しばしばウイークデーに教会に来ては2時間近くお祈りをして過ごされていました。ところがある日突然、補聴器がいらなくなった。説教がよく聞こえるようになった。あの出来事も神の啓示かもしれないと思いました。十字架は神がもっとも神らしい存在として、わたしたちの前に姿を現してくださった出来事です。

主イエスは「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(34a)と言われました。
「教会の中は世の中とは違うはずだ。教会に愛を求めて集ってみた。でも自分の愛されたいという渇きは、少しも満たされなかった。」
そんな思いを味わったことがある人は意外と多いのかもしれません。主イエスは単に愛し合いなさいと言ったのではなかった。
「互いに親切にしなさい」
「愛し合いなさい」
世界中で、どの国でも言い続けてきた。しかしそうした世界が、民主主義を標榜しながら、でっち上げの情報で、他国に戦争を仕掛け、侵略し、原爆を投下し、他国を植民地化し、強制収容所を設置します。一般論で「いじめはダメです」「虐待はいけません」と言ってみても、現実は少しも変わりません。十戒にも、<父母を重んじなさい><殺すな><姦淫するな><盗むな>とありますが、それに先立つ「神と人間の関係が確立されること」がまず大切なのです。

「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(35節)は未来形です。今はまだそうなっていないかもしれない。しかし、やがて必ずそうなるから。だから今、あなたは信じなさい。今、弟子になりなさい。
後は神にゆだねるのです。

人は神なしで生きることを好むのです。ですが神は人間抜きで生きることを願っていないのです。ユダは裏切るために出て行きました。残っている弟子達も早晩、イエスの元から逃げ出すのです。しかしそうした現実をすべて知った上で主イエスは愛に生きることを弟子達に命じるのです。弟子たちはこの言葉を心に受け止めたのです。
そうして造られた教会でも、主イエスの願いどおりの愛が実ったわけではなかった。しかし完全な形とはいえなくても、神を見上げるところにこの愛は実る。それは主イエスを信じる力と共にあり、信じる心に実ることを覚えたいのです。

2023年5月7日 礼拝メッセージより

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