神は使者を遣わす

マラキ 3:1-5

最近、わたくしはキリスト教会ではないところで、キリスト者ではたぶん全くないであろうと思う人の口から、かつてのドイツ告白教会の牧師マルティン・ニーメラーのことばを引用する演説スピーチを耳にします。こういうものです。

『ナチスがコミュニスト(共産主義者)を弾圧した時、私は不安に駆られたが、自分はコミュニスト(共産主義者)ではなかったので、何の行動も起こさなかった。その次、ナチスはソーシャリスト(社会主義者)を弾圧した。私はさらに不安を感じたが、自分はソーシャリストではないので、何の抗議もしなかった。それからナチスは学生、新聞人、ユダヤ人と、順次弾圧の輪を広げていき、そのたびに私の不安は増大したが、それでも私は行動に出なかった。ある日ついにナチスは教会を弾圧してきた。そして私は牧師だった。だから行動に立ち上がったが、その時は、すべてがあまりに遅過ぎた。』

旧約時代にイスラエルにおいて、神の民が神の民らしく生きるために、大切な働きをした人々として、預言者の存在がありました。彼らはごく狭い宗教的な領域だけで行動したのではありませんでした。神からの指示を受けつつ、それを人々に伝え、そのことを持って社会全体に発言し、神の民をあるべき方向に導いていく役割を持っていました。それは世に対する見張りの役割、舟で言えば羅針盤の働きといってよい働きでした。

以前こんな出来事がありました。郵便局を27年間、実直に誠実に勤め上げた人が、退職を前に、この方は30年前、大学生のとき、デモを行って公務執行妨害で逮捕されたことを隠して勤務していたと匿名の電話があったというのです。郵便局はこれをもって退職金支払を拒否し、最高裁で処分妥当の判決が出たというのです。そして最高裁は判事の一人は反対したが、多数意見として、この郵政公社の決定を支持され、退職金ゼロにしたと新聞は伝えたのです。

キリスト教会も根本的にはこの世に対する見張りの役割が託されています。教会がおかれているこの世が誤まった方向に進もうとしているときに、それに気づいて警告を発すること、方向転換を訴えることは預言者としての務めといえます。

今日わたしたちが耳を傾けようとしているのは旧約聖書の最後の書、預言者マラキの言葉です。マラキは紀元前500年頃活躍した人です。その時期イスラエルの人々はバビロニヤからの帰還を成し遂げ、彼らは祖国に戻り、破壊されたエルサレム神殿も再建され、落ち着きを取り戻しつつありました。いよいよ神への信仰に心入れて、民族としての歩みを整えられる環境が整ったのでした。

しかし落ち着きを取り戻すということは、もう一つの方向、つまり精神的な厳しさを忘れ、社会的、道徳的退廃を生み、むしろイスラエルは混乱への方向に動きだしていたのです。行くべき方向を失っていたのです。それは一つには帰還直後の強い願望であったメシア(救い主)の到来がいつまで待っても起こらなかった虚無感、無気力が人々を支配し始めていたからといわれます。漂流間、羅針盤が壊れて、方向も分からずに右往左往する人々、今の日本につながる精神的漂流感がイスラエル全体にあったのです。

そうした時代状況の中で、ごく一部の人々が悪に走るというのではなく、多くの人々が正義や愛の感覚を失っていたのです。さらに、少数であっても、そこにいたはずの敬虔な人々、真実な信仰に生きていた人々さえ、信仰の情熱を失い、希望をしぼませ、神への不信をつのらせていったのです。そして信仰などまったく眼中になく、不正や、放埓に生きている人々、悪や不正を行っている人々が、むしろ社会の中でいい暮らしをしている現実を見て、敬虔と正義に生きる人々が神への不満を表すようになっていったのです。

2:17<・・・悪を行っているものの方が栄えているのは、神が彼らのほうを喜んでうけ入れておられるからだ。正義の神などどこにもいないのではないか。・・・>
さらには3:14,15
そこには悪への憧れ、思いのままに生きることへの人々の心が傾いている。「神を信じて待って生きるより、神を無視してこの世の原理に従って生きるほうが楽だし、得だ。」という考えも感じ取られます。そうした感覚が、神を<疲れさせる>とマラキは言います。

神が信仰ある人々に求めることは、悪や不正を行っている人々が栄えているのを見て、一緒になって不正を行おうとすることではなく、むしろ悪と不正の中にある人々のために祈る、彼らが裁きを受ける前に悔い改めて、神に立ち返るようにとりなすことです。

信仰者たちが神に向けてなす祈りは悔いし砕かれた心を持って、同胞の罪からの解放と祈りを祈り求めることなのです。マラキの時代信仰者のあり方がその中心から腐敗しつつあったのです。

3:1以下でマラキは不信仰、不正義、悪のはびこる社会の中で、神はそうしたイスラエル社会をやがて浄め、神の民にふさわしいものとして作り変える。そしてそのために神は「私は使者を送る」。そしてその後に主が来られると告げます。そこにはさまざまな言葉があります。使者、彼、契約の使者、万軍の主、彼、わたし。やがてイエスキリストが来られるということでしょうが、神は準備の期間としてさまざまな使い、マラキも含め、バプテスマのヨハネも含め、さまざまな人々を送ると受け止められます。

神の使者が送られ、救い主が来られる。

それで何が起こるのでしょう。3節「レビの子らがきよめられる。」
レビの子孫とは神殿で働く祭司たちの事であり、イスラエル社会における宗教指導者のことでもある。これらの人々のうちに信仰には遠い、悪や不正、弱い人々(雇い人、寡婦、孤児、寄留者)への無関心、愛の欠如がありました。まずそのことが聖所で正され、神に喜ばれる礼拝が行われる。
5節<直ちに告発される。>
それに引き続いて次代の中にある悪が取り除かれるのです。そうして民全体が神の民にふさわしく、きよめられ、整えられ、帰られていくというのです。

この世に腐敗や不正がみなぎっていること、愛が不足していることは教会の不信仰と無関係ではないのだという指摘を、あえて受け止めなければならないと思います。

わたしたち教会にあるものが神の愛を目指し、真の正義を望み、和解の福音をちからと勇気を持って運ぶことが求められているといえるでしょう。キリスト者であるというなら、キリスト中心で生きるべきでしょう。教会が時の政権とともに、イラク戦争を支持したり、皇軍戦勝祈祷会をしたり、広島ナガサキ原爆投下成功のために祈ることは過ちなのです。

神が約束した救い主の到来はキリストのお出でによって現実のものとなりました。神は人間の歴史の中に、つまり世界史の中に、そして個人の歴史の中にも、これぞというときに顔をお見せになり、事を行われるのです。神の関心はこの人間世界のことですし、あなたのことでもあるのです。御子イエスキリストは罪びとの救いのための必要なことをすべて成し遂げられて、天にお帰りになりました。教会はキリストが勝ち取ってくださった救いのめぐみを、すべての人々に差し出す務めが与えられました。やがてイエスキリストは再びお出でになるのです。それまで教会が、神の使者として終わりのときへの道備えをこの世にすべく役割を与えてくださっています。

わたしたちそれぞれは、普通の人なら、その世界はとても小さな範囲でしょう。教会とか、家族とか、職場とか、地域社会。ほんの狭い範囲。でもそこにわたしたちがつかわされていると教会には、教会でしかおこらない神の業が起こるところです。私には起こらないという人はいない。

(2020年12月13日 礼拝メッセージ)

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