イエスを見つめながら

ヘブライ書 12章 1~3節

主による鍛錬

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信仰生活が一つの長距離レースのように捕らえられております。当然一定の長距離を走りぬくためには身軽な体でなければ走れません。最近のオリンピックでも国際レースでも陸上競技の選手も水着を着て走っているのではないかと思われるほどランニングシャツもパンツも軽装です。5,000メートル、1万メートル、マラソンなどの長距離レースはできるだけ身軽に軽やかに先頭グループに居残って、後れを取らないようについてゆき、レースを作っている選手を見分けて、その選手から目を離してはならないのです。ここではまさに「イエス・キリストを見つめながら走りぬこう」と呼びかけます。また3節には「あなた方が、気力を失い疲れ果ててしまわないように」とあります。長いレースでは弱り果てて体力とともに気力が失われてゆくのです。気力を落とさない。長丁場に耐えられる体力を温存しなければなりません。その辺の計算をしながら自分のペースをしっかり保って完走を図ります。

明らかにヘブライ書の記者は古代ギリシャ時代から行われていたマラソンを念頭に入れてこの文章を書いたように思えます。
マラソンは単に筋力が絶対的に物言う近距離レースにはない精神力、スピリチュアルな側面まで試される全人的なレース。42.195キロを走破するレースです。しかしマラソンはより多くの人々が魅了されます。1964年の東京オリンピックで3位となって銅メダルを獲得た円谷(つぶらや)幸吉というランナーがいました。レースはもつれて、それでも最後の国立競技場のゲートをくぐるまで円谷選手はエチオピアのアベベに次いで2位だったのです。ところがゴールを目前にして最後の最後で円谷選手はイギリスの選手に抜かれて、彼は3位になったのです。彼は次の1968年のメキシコオリンピックでさらに上を目指します。しかしあまりに多忙な日常生活から椎間板ヘルニヤが悪化しメキシコオリンピックが近づく1968年1月3日、偉大な円谷幸吉さんは勤め先の自衛隊体育学校で自殺したのです。あまりにも短く、あまりにも早すぎる死と伝えられました。

マラソンには、レースそのものもですが、選手自身の物語も人々の注目をひきます。ヘブライ書でいうところの競走とは、人生そのものと言えるでしょう。(12:1)「こういうわけで、わたしたちもまたこのように夥しい証人の群れに囲まれている。」とあります。<わたしたちもまたこのように夥しい証人の群れ>とは沿道で声援してくれている観衆ではありません。自分と同じようにこの長い苦しい道のりを走った人たちです。

ヘブライ書の記者は11章全体で直接的には旧約聖書の聖徒たち列伝を長々と取り上げます。ここには「アベルとカイン」の話や、「ノアの箱舟」の話、「アブラハムとサラ」「イサク」「モーセ」の話が登場します。  これらの人々の歩みは決して成功物語ではありません。自分が目標を設定して2時間20分で走ることができたとか、自分の目標を達成した物語ではありません。むしろ神が目標を設定した。時にはその目標すら見えなくなる。ただ神の言葉を信じて神に喜ばれるように歩んでゆく。みこころと信じたところに従って進んでゆく。それによって道が開かれることもある。しかし場合によってはそのまま人生が終わることもある。

信仰によって何もかもうまくいったという甘い話ではなくなる場合もある。主イエスはある時「ああエルサレム、エルサレム」と言いました。本当に正しいことを神の言葉として語ったがゆえにこの町で殺された預言者たち、苦しめられた義人たちがどれほど多くこの町では終わりを迎えたか。他ならぬイエス・キリストご自身も、捨てられ十字架につけられ、深い悲しみの中で地上の歩みを終えました。ですから信仰の道を走りぬくことはわたしたちが設定した人間的な目標に向かって頑張ってゆく、そして、それが最後にはうまくいく、というばかりではない

イエス・キリストは「時は満ちた。神の国は近づいた」(マルコ1:15)と言われました。神の支配がもう来ている。神の真実な支配が実現する。具体的に言えば預言者たちが言い続けてきた…みなしご、寡婦・やもめ、寄留の他国人、世の中でいと小さくされている人、弱い立場に追いやられている人が大切にされる。金持ちや欲張りがは退けられる。さらには人が人として本当に信頼しあって愛し合う社会が実現する。そうした神の支配が必ずやってくる。そのゴールに向かって私たちは走りぬくのです。

信仰の創始者また完成者であるイエスをみつめながら(12:2)口語訳は導き手とありました。これはわかりやすいのですが創始者のほうがより正しいようです。本の著者という意味もあります。思えば私たちの信仰の第一歩に主イエスがおり、その最後にも主イエスが立っておられます。ヨハネ黙示録に「わたしはアルファであり、オメガである」(1:8)という言葉があります。

聖書は、神が人となったといいます。主イエスは人間の持つ、ありとあらゆる恥をなりふりなく引き受けました。かれらを心から愛したからです。主イエスはライ病人を抱きました。罪ある女性たちと食事をし、日常にかかわりました。それは当時の常識からすれば恥に満ちたことだった。主イエスは恥だけでなく、苦しみさえ引き受けました。

人生という長いレース。時には苦しい状況に出会います。目標も見えない。そのレースの中でイエス・キリストの目をとどめる。この方をペースメーカーにしながら<信仰の創始者>とし<信仰の完成者>と見上げて走りぬいて行こう。しみじみと心に思います。

キリスト者は何よりも十字架と復活のキリストを唯一の目標として信仰の前進を遂げることが求められます。コロナ流行期に入って十戒を唱えることができなくなって残念に思っているのですが「わたしのほか何ものをも神としてはならない」という第一戒を心の中に畳み込んでおくことは大切です。パンデミックの中でキリスト教信仰から遠のく人が出てきます。昨日まで信徒であった人が今日からは全く信徒でなくなるわけではないでしょう。そういう私たちにヘブライ書は、繰り返し繰り返し神の言葉はかく語りきと主の言葉を語るのです。青して神への祈りは絶やしてはならない。この教会員すべての人々がゴールにたどり着くべきだと語るのです。

2022年8月14日 礼拝メッセージより

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