神殿奉献
明けましておめでとうございます。毎年めぐり来る年の初めですが、その年々に喜びや感謝の思い、そして新たな決意を持って新年を始めることができることは感謝です。しかも今朝は元旦でもあります。
ルカ福音書2章21-40節
シメオンという老人が登場します。この人は、エルサレムの神殿に、両親に伴われて宮参りに来ていた幼子イエス様に出会って「この方こそ、神の約束に基づいて待ち望んでいた救い主である。」と言うことを高々と告白した人物です。
「この人は正しい人で、信仰が厚く、イスラエルの慰められるのを待ちのぞみ、聖霊がとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのみ告げを聖霊から受けていた。」(25a-26)
シメオンは<イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた>
29節に「主よ、今こそあなたは、・・・この僕を安らかに去らせてくださいます。」と言う言葉から老人であることを推測させるのです。
年を重ねてきた者にとって、心の中で大きな部分を占めるのは、常識的には過去の出来事であり、過去にまつわる記憶や思い出です。それに対して自ら評価して、自分の人生は如何ほど意味あるものだったのかと思いを致すのではないでしょうか。
シメオンは老いの中で、過去の栄光を誇るでもなく、苦々しい現在の有様に腹を立てるでもなく、逆に、未来に目を向けているのです。老人にも見るべき未来が残されています。シメオンは神の約束の実現を待ち望む希望の人として描かれます。シメオンは神が遣わされる救い主が現れるまで死なない、という確信に立っていました。それまでは死ねない、ともとれます。そしてシメオンは、その<時>は決して遠くないと実感していたのでしょう。その希望の中で心躍らせて、その<時>を活き活きと過ごして迎えたのです。
「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。・・・神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブライ11:13-16)
だれでも年老います。年老いてなお希望をもって、なお変わらずに生き続ける希望とは、神が準備してくださる天の故郷に迎え入れられることです。齢進めば、病を得ることもあり、からだの不自由さは増すかもしれない。しかし、老いてなお、希望に生きる道が、老いるからこそ、ますます鮮明になる道も備えられています。
さらに<聖霊が彼にとどまっていました。>(25節)
<主が遣わすメシアに会うまでは決して死なないとのみ告げを聖霊から受けていた。>(26節)
<シメオンが霊に導かれて神殿の境内に入ってきたとき>(27節)
聖霊は繰り返してシメオンに働きかけた。シメオンは<希望の人>であり<聖霊の導き>の中にある人でした。それは別の面から言えば<祈りの人>であったといえます。
わたしは右耳の聴力を突発性難聴で失って左耳に補聴器を装着するようになっていますが、つまりは左耳にはありとあらゆる音が飛び込んできます。意外に大きいのが風の音、自動車の排気音とか、ありとあらゆる雑音を機械である補聴器は拾ってくれます。わたしが聴きたいのは神の声なのです。シメオンは絶えず神に語りかけ、神からの示しと、神からの回答を得ていた。だから彼は霊に導かれ、神の意向を知ることができた。
26節に出てくるアンナという女性も老いた預言者で「断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」。(37節)
その故でしょう、この人も、幼子イエスを、神からの救い主として信じることが出来、神を賛美することが出来たのです。老人になるとつい愚痴や呟きが多くなるものです。しかしこの二人には祈りと賛美がありました。神に語りかけ、神に問い、神からの回答を頂くことに多くの時間を割いたのです。
老年期には確かに時間が出来ます。そこで「時間的にゆとりのある老年期が、祈りの日々となるために、わたしたちは多忙で盛んな時期にこそ、祈りの習慣をつけておくべきだ」と教会ではそう教えられているのです。いきなり老年期が来るのではありません。老いる前に、神との交わり、その喜びや慰めを体験することは大切です(コヘレト12:1を参照)。シメオンもアンナも若いときから信仰に生きてきたこと、祈りと賛美における神との交わりに生きてきたことが、老いてもなお平安と、喜びと、賛美を失わずに、明日に希望を抱くことが出来た力でした。
そしてシメオンは幼子イエスを抱いて、シメオンの賛歌(讃美歌)を歌いました。その中でシメオンは「わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」(30節)と歌いました。ヨセフとマリアの腕の中にいる幼子イエスを見て、そこに、神の救いを見抜いたのです。生まれてまだ1ヶ月も経っていない一人の幼子の中に、世界の救いを見通したのです。このことは女預言者アンナにも言えます。
わたしたちはクリスマスを祝いました。クリスマスは、信仰者の共同体として目に見える形で存在する教会は、いかにみすぼらしくて、貧しいものであったとしても、これを用いて神はすべての人の救いのために、今も働いておられるということを確認することが起こる。これこそクリスマスです。あまりに貧しいが、救い主の誕生であると見つめる信仰。ヨセフとマリアに抱かれている幼子が世界の救い主であるという可能性を確信できる信仰。今もなお様々な問題を抱える地上の教会が、なお神の教会であると信じる信仰。そのとき、わたしたちは深い満足、心からの賛美の思いに導かれます。わたしをわたしとしてくださった神への賛美は、限りない自己肯定への第一歩です。
神に心から思いを向けることが出来れば、わたしたちは人の心にも語りかけることが出来ます。
さまざまな問題が、自分の内側に、日本社会に、そして世界にあることは承知しています。しかし、神の救いこそ最も実現されていかねばなりません。得に日本の社会には希望の力が萎えてきていることを覚えます。世界が慰められますように、世界が慰められますように、神の言葉が今こそ多くの人々に伝えられますように。今年はそうした年でありたいと願っています。
2022年1月1日 礼拝メッセージより