いやすキリスト
ルカ7章11-17節
やもめの息子を生き返らせる
主イエスはガリラヤ湖の南端から15キロほど行ったところにあったと言われるナインという町で、埋葬に向かう葬列にぶつかるのです。主イエスが弟子たちと大勢の群集と共に町の門に近づかれると、ちょうどある母親の一人息子が死んで、柩が担ぎ出されるところでした。当時この地方にある町は全てその周囲を壁で囲っていました。その時代はローマの平和が世界を支配していましたが、戦争の多かった古代社会では外敵の襲来を防ぐために町をめぐる壁にいくつか門を設け、昼間はそこを通って農作業や行商に出かけ、夜は閉鎖されるというのが普通でした。
葬列は、墓場に『なきがら』を葬りに行くところでした。<ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。>とルカは注釈をつけています。その葬列に一人の女性が激しく涙に暮れて、柩に付き添っていました。大勢の人々が彼女を支えるようにその傍に付き添っていましたが、彼女には夫の姿も、子供の姿も見当たらなかった。彼女が失ったのは家族の中の最後の一人だった。彼女が激しく泣きながら呼んでいる名前をお聞きになった主イエスは、彼女が息子を失ったこと、夫にも先立たれた身であることを悟られたのかもしれない・・・。
いまから2000年も前に、女性が一人で生きてゆくことは難しい時代だったと思います。夫に先立たれていただけに、愛する息子の存在はどれほどの希望だったことでしょう。成長するにつれて息子が亡き夫の風貌に似てくることも嬉しかった。息子の存在は彼女の唯一の希望だった。突然の病気か。何らかの事故か。
主イエスはこの光景をみて、事情を察知し、柩に近づき、嘆き悲しみ、涙にくれる母親に向かって<もう泣かなくてもいい>と語りかけたのです。近ごろは他人の悲しみに心を同調させることは、薄れつつあるのではないですか。ラザロの死には涙を流された主イエスですが、この一人の、恐らくはもう若くはない女性の嘆きに、激しく心を動かされたのです。突然の出来事が彼女を襲って、この女性の唯一の希望のすべてが打ち砕かれてしまったのです。彼女は周りの人に助けられて立っているのが精一杯だった。これを興味半分で見る人、いつもある光景の一つとして見る人、大袈裟だと思う人、見る人によって異なります。
「主はこの母親を見て、憐れに思い『もう泣かなくともよい』と言われた」(13節)
この憐れむと言う言葉は<はらわた>と言う言葉から来ている動詞だと言われます。憐れみとは単に<可哀想な>という言葉ではないようです。お腹のそこから突き上げてくるような、抑えきれない激しい感情のようです。そのような思いに突き動かされて、主イエスは一歩を踏み出されたのです。今さらどうすることも出来ない、手のつけられない悲しみに支配された行列に向かって行ったのです。母親の側にいた人々はそれをすぐに感じ取ったのです。涙に濡れていた母親の目も、この主イエスを見上げた事です。この人はいったい誰か。何をしようとするのか。
このどうにも手のほどこしようのない悲しみ。泣きくずれるしかない悲しみを前に、「今さら何かできる事でもあるというのか」という事です。
誰かが亡くなった時、特に幼い子供であったり、深い愛情で結ばれている夫婦の一方を失ったような状況の中で、かける言葉を失う事があります。何も言えないのです。やっと言葉を絞り出すと、むなしさだけが響く。ですから、一緒に居てあげて、涙を流すだけ。泣いてあげることが、唯一してあげられる事。でも主イエスは「もう泣かなくともよい」と言われたのです。
誰かの死において、枕辺で、軽々しく言葉を話す事が出来なくなります。葬儀の場で何をどう語るか、いつも難しさを覚えます。ある葬儀で、「この人は信仰を持って生涯を全うしたのだから、わたしたちは悲しくない」と言った牧師がいました。それは本心ではないと思いました。本当は悲しいのに、その気持ちに圧倒されまいとして言ったのだと思います。
でも主イエスは「もう泣かなくともよい」と言い、さらに14節<若者よ、あなたに言う。起きなさい。>と言われたのです。そんな言葉を、こうした重大な状況で語れる人は他にいません。
何の力もなく、全く不用意に、無責任に、何かを言う人がいないわけではない。でも、それはたちまちに激しい怒りを引き起こします。ここでそう言うなら、そう言うだけの力を見せなければならないのです。だから自分を知っている人間は沈黙するほかはない。でも、主イエスはそう言い、御自分の言葉が事実であることを、出来事をもって示されたのです。
主イエスがこの列に近づかれ、母親に話しかけられている間も、葬列は止まらず、埋葬する墓に向かい続けていました。埋葬することが目的の人々の集合でしたから。だから、誰もこの葬列を止められない。そんな無礼な人は誰もいない。しかし、主イエスはこの葬列を止めました。一時的に止めたのではなかった。完全に止めてしまった。
主イエスが柩に手を触れられると、担いでいた人々は足を止めた。そして柩の蓋を開けて、中に横たわっていた若者に向かって言われたのです。
「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」
これは命令です。主は“この私があなたに言う”と言われたのです。彼らは驚きを持って主イエスを見た。それはただの喜び合う人々の集団と化していた。この行列はもう墓場には行かなかった。もう葬列ではなくなってしまった。
私たちは知っています。私たちの声が死んでしまった人たちのもとに届く事はないということを。それでも、一連の葬儀の中で、悲しみに暮れて、わたしたちは柩に向かって呼び掛けます。でも死の壁は、いかんともしがたい。鉄の壁よりも冷たく強いのです。人は分かっていて、なお呼びかけます。でも、ここに、その死の壁すら突き破って、生きている人に対するのと同じように、死の向こう側にいる人に対しても語りかけられる、そういう方がいるのです。<起きなさい>と主に命じられた通り、若者は起き上がったのです。
「イエスは息子をその母親にお返しになった。」(15b)
ルカの文章も心を打ちませんか? 主イエスがこの若者を甦らせたのは、彼をその母親に返すためでした。イエスはなんと愛に満ちた方でしょう。この女性の悲しみを自分の悲しみのように感じられた。
主イエスは同情から、ただの一言で、死のむこうから、この若者を取り戻しました。そして主イエスは、自ら十字架の上の死を経験されました。主は死を前にして死ぬ事におののかれました。血の汗を流しながら、この苦き杯を取り除けて、と嘆願しました。死は滅びです。主は、十字架の上で神から捨てられて、死ぬ事の恐れを味わいつくされたのでした。
この若者が甦ったということは、一旦機能停止した肉体が戻ったと言うことではありませんでした。彼が滅びから救われたと言うことです。この時点で神の救いに絡め取られた。神から「君はわたしのものだ」と言われたということです。これは主が復活の向こうから語られた言葉です。人間が神様の事を何もわからなくなってしまうほど、神から遠く離れてしまって、そのため死んで滅びてしまう。
なんとか助けたい。やがて神は一人子の主イエスを、犠牲にしてでも、救い出そうとしたのです。
(参考:黙示録21:3,4)
葬列はUターンしてしまいました。やがて、親子の日常が戻りました。何年かして母親は死んだでしょう。若者も年をとって死にました。彼らは二度と生き返ることはなかった。でも彼らが死の床にあっても、「もう泣かなくてよい」「若者よ言う。起きなさい。」という主イエスの言葉は響いていた。
主イエスは人間の形をまとった神なのです。
彼は人間性と共に、神であられる方。主。
彼は人間性と共に、永遠性をまとう方。
主イエスがおられる所には、起こり得ないはずの癒しが実現した。諦めるしかない不治の病が癒された。イエスには永遠の光が輝いていた。死は滅ぼされていた。そうしてナインのやもめは涙を拭きとり、柩に横たわっていた息子は新しい神の世界の空気を呼吸した。彼らは新しい命に生かされていた。
やがてもう一度新しい命に生かされることを望みながら、二人は地上の人生を幸せに終えていった。
わたしたちの日常が、かつての望みのない日常とは、はっきり違うことを信じよう。この母親と息子には平凡な日々が戻ってきたことです。でもただ元の生活が帰ってきたのではなかった。ふたりには悲しみと死のどん底でさえ、あたかも天を破るかのようにして主が実相を現される。
2023年2月12日 礼拝メッセージより