漂流と難破の向こうで
使徒言行録 27:33-44
使徒パウロは3度にわたる世界伝道旅行を敢行しました。パウロの願いはローマに福音を伝えることでした。パウロは3度にわたる困難な伝道旅行を行いましたが、ローマ行きは、まだ実現できていませんでした。
パウロという人はもともと、生まれたばかりの教会にとって極めて危険な迫害者でした。キリスト者と知れば男も女も子供すら区別なく捕縛し、つまり縛り上げて投獄し、迫害するという、教会からすれば、危険な存在でした。今風の言葉で言えばテロリストに近いユダヤ教原理主義者でした。そしてまさに隣国のシリヤのダマスクスにキリスト者迫害のため部下ととも、<使徒行伝9章1節>の表現からすると<脅迫・殺害の息を弾ませて>馬を走らせていた、、、馬上でパウロは主イエスに出会わせられてしまった。パウロ自身が自分自身ではキリスト者になるという意向などまったく思ってはいなかったのです。自分が一応正しいと思い込んでやってきたことが、まったくの過ちだった。パウロはそのときそれまで迫害を加えてきた一人一人の顔を思い出したのではないでしょうか。暴力を加えれば加えるほどキリスト者たちは確信に立って、従容と、堂々と罰を受け止めていった。その一人一人を思い起こし自らの行ったことの致命的な罪深さを味わっただろうと思います。
とはいえ神さまはパウロの致命的過去ではなく、パウロの内側にある計り知れない可能性に期待してくださったのです。神さまはパウロを最初から異邦人への使徒としてお選びになりました。パウロがバルナバとともに第一次伝道旅行に踏み出したとき、教会は異邦人キリスト者が生まれることを想定していませんでした。異邦人がキリスト者になることはむしろあってはならないことでした。しかし第一次伝道旅行が始まった途端、カイザリヤでローマ人の百人隊長コルネリオがキリスト者になり、そこに聖霊が下ります。エルサレムからペテロが呼ばれペテロは語ります。「神は人を偏り見ない方で神を敬い義を行うものはどの国民でも受け入れてくださることが本当によくわかってきました。」と感動的に語ります。そして原始教会で初めて割礼なしで水のバプテスマが授けられるのです。でも正式に異邦人が受けられるのは第二伝道旅行後にエルサレム会議が開かれ、教会は分裂寸前までもめにもめてやっと合意にたどり着くのです。
しかしパウロによる3度の世界伝道旅行も相まって、教会はローマ帝国中に拡大してゆきました。大体何年くらいでローマ帝国全体に教会ができていったかというと教会がペンテコステで始まって20年から30年と言われています。そしてウイリアム・ウイリモンが書いた礼拝学の本の一節に「パウロなどの宣教者たちの指導の下にあって教会は劇的な発展を遂げた。皇帝ディオクレティアヌスによる迫害の時代(303年)までにローマには数千人の信徒の属するおよそ40のバシリカ風教会道が存在するようになった。」(言葉と水とワインとパン51ページ)
さてパウロは、3度にわたる困難に満ちた伝道旅行でも実現できていなかったローマ行きが突然、実現することになりました。パウロはローマ市民権を持っていたために、ローマでの裁判をといえば、この申し出が受け入れられたのです。パウロがこれを希望したからです。普通一般のユダヤ人であれば、この要望が受け入れられるわけはなかった。パウロはローマ軍の護送船で、裁判のためローマまで送られることになりました。パウロの本心はローマで、ローマの人々に自分の信仰を証ししたい、という願いを持っていたからです。ただパウロ護送の任務に就いたのは近衛隊の百人隊長ユリウスという人でした。近衛隊というのは皇帝をガードする部隊ですから、パウロとほか数名を護衛するために精鋭部隊が派遣されたのでした。27:3節ではパウロはシドンで友人を訪ねることが司令官のユリウスに許可されています。囚人というより賓客のような取り扱いです。
しかしその船旅は順調ではありませんでした。
この時代の船の航行は島影というか、陸地に沿って航海することが多かったのです。それでも地中海は船の墓場と言いますか、沈没船だらけなのです。イタリアで博物館に行くとオリーブオイルや、ワインを運んでいたローマ時代の沈没船ががしばしば引き上げられて展示されています。パウロたちはシドンから船出しますが、さっそく逆風に直面したので、キプロスの島影を航行し、ルキヤのミラに入港します。
この船はローマの近衛部隊の護送船ですから、相当しっかりした堂々とした船だったと思います。でも司令官のユリウスは何か不安を覚えたのです。ちょうどそこにイタリア行きのアレキサンドリヤの船が来た。ユリウスはこちらの船のほうが、より大きく安全だと思えたのでしょう、全員をこのアレキサンドリアからの船に乗り移らせたのです。
ところが、まだ道半ばにも到達しないクレタ島沖で、ユーラクロンといわれる暴風にあって、この船は数名の囚人を運ぶ船ですが、パレスチナやオリエントから貴重な品物を運ぶ船でもあった。ところが暴風雨はやむ兆しもなく、アレキサンドリアからの大型船も木の葉のように揺さぶられます。明日になれば嵐は少し止むだろう、と期待をかける。しかし3日たっても嵐はますます激化するばかり。ついに虎の子の積み荷を捨て積み荷を捨て、船員は航海に必要な船具まで捨て始めた。20節「幾日もの間、太陽も星も見えず、防風は激しく吹きすさぶので、私たちの助かる最後の望みもなくなった。」
これを書いたのはルカでしょうか。助かる最後の望みも消え果た。しかしパウロは神のみ使いの声を聴いていた。24節いずれにしてもこの惨憺たる航海は終わりに近づいていた。
27節によるとアドリア海を14日も漂流して、最終的に船は操船不能になってしまった。ついに舵も壊れて船はただ流されるまま、これは船というより筏といったほうが良い、難破船同様に流れに流されて船は漂流するまま、やがて難破して、壊れましたが、乗組員、兵士、囚人は、とある、どこかわからない島にたどり着いたのです。44節。
じつはこのパウロの船旅、神がパウロとともに乗船しているかのようです。船は最初アジアから来てアドラミティオンで船を変えてアレキサンドリアの船に乗船します。乗り換えるのです。そしてクレタ島の良い港というところ(8節)によりやがて強力な嵐にあい、難破します。しかし一人が亡くなったり、怪我をする人はいなかった。そして一行が上陸して知ったことが、その島はマルタという島だったのです。
あらためて地図をごらんになると、マルタ島というのはイタリア・シチリヤ島のすぐ南にある島です。そこからローマはそんなに遠くはありません。大嵐でしたが、この嵐がために、パウロ一行は超高速でイタリヤに近づけられたことにほかなりません。嵐の中でどれほど絶望的な思いに駆られたでしょう。悪くすれば場合によっては敵対民族の土地で全員が捕虜や奴隷に身を落とす可能性でもあったかもしれません。
万事があい働きて益になる。ローマ8:28
人は神の摂理を信じていいのです。神は神を愛する人にみわざを行ってくださる。信じる人には信じる人にふさわしい神の出来事が起こるのです。
そもこの船旅は個人の都合や願望から始まったものではありませんでした。突然の神の召したもうおつとめでした。船旅は順調どころか、漂流と難破でした。けれど目的は100%果たされパウロはローマ入りしたのです。
(2020年07月26日 礼拝メッセージ)