あなたの信仰があなたを救った

ある女性が出血のどん底にあった。出血が止まらなかった。血が止まらないということ、そのこと自体、恐怖である。マルコ福音書のこの女性は宗教的に、社会的に、汚れた者として不浄のレッテルを張られ差別されていた。鮮血が止まらないということは本人にはどうにもならない。弱り果て、途方に暮れるだけ。彼女は「主イエスの着ていた衣の裾に触れたらこの出血は止まる。」と一途に信じていた。そして触れた。瞬時に、癒された。

しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

マルコ福音書5章32-34節

私はかつて鼻血で苦しんだことがある。流れ落ちる鼻血を洗面器で受けながら救急車で運ばれた。運び込まれた大学病院の担当医師によると、鼻の軟骨・鼻中殻の形が変形しているので手術が必要だ、と説明され、言われるままに手術を受けた。痛い手術だった。それでも出血は止まらなかった。鼻腔の入り口で血液を抑えていると、血液は目に回り涙のように目から血が出た。
あれから40年。今思えば私のあの出血は高血圧が一つの原因であったかもしれない。そして手術後も出血に全く縁が切れたわけでもなかった。でもどういうわけかこの女性のようにこれを直接的な信仰の課題にすることには気が引けていた。むろん私は他人のためには祈る。聖書のこの出来事も知っているのになぜかこの女性の様な勇気ある信仰には立てなかった。

信仰生活を生きる日々の歩みの中で、自分のために祈ることは、つい後回しになることがあります。その上、人は自身の心の奥底に深く傷ついた、悩む問題を抱えこんでいるものです。信仰生活と言いながら、人はそれを信仰の課題として取り上げることを恐れるのです。それでもなお、わたしたちのうずく心には主イエスの眼差しが注がれています。神が我々に関わって下さる事を求めて、キリスト者として生きることを私たちは神に誓った。今更自分の一定の区画を切り取って「主イエス様、ここは私のものです。そこにあなたが介入なさることはコマリます」というのは矛盾であり分裂です。

言うまでもあるまい。わたしたちは主イエスの眼差しに生きよう。あの12年間もの長血に苦しんだ女性のように、イチかバチか主イエスにかけ、自分をさらして歩もう。
主イエスの眼差しには癒しも、赦しも、人間としての解放も含まれている。

2023年6月4日 週報の裏面より

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