もう泣かなくてもよい
(ルカ福音書7章13節)
数ある絵本の中でもレオ・レオーニによる「あおくんときいろちゃん」という本は忘れられない本です。この本を知って50年以上も経ちますが、わたしにとってその魅力は少しも減りません。塗りつぶしただけのただの丸である青クンと、同様に塗りつぶしただけのだけの丸である黄色チャン。二人は遊んで一緒になっているうちにミドリになってしまいます。緑になった青クンと黄色チャンは、家に帰っても「うちの子は青なの!」「うちの子は黄色のはず」と家に入れてもらえなくなってしまいます。
二人は親に見捨てられたと思って、悲しくなってぽろぽろと涙を流して泣いてしまいます、すると、涙は青い涙、黄色い涙となって二人は再び青クンと黄色チャンに戻ります。ことの次第がわかった青クンの親と黄色チャンの親同士、一緒に楽しく時を過ごします。すると親同士がまじりあって緑になります・・・・これが単純なマルで表現されます。
人は悲しい時にも嬉しい時にも涙を流すことがあります。涙は正直です。そしてイエス・キリストは、しばしば他人の心をわが心のように読み取り涙を流された方でした。主イエスは時折<腸(はらわた)がちぎれるような同情心―ルカ7章>を示してやまない。それも相手にそこまでの資格があるとか、正しい生活があったかどうかとか、信仰の有無すら問わずに相手に尽くしきる。
その無条件の愛に人は動かされます。何故かといえば、無条件の愛とは「究極の愛」であって、他ならぬ私たちがその愛に捕らえられているからである。
理不尽とさえ言いうる愛であることに感謝しつつ。
牧師 小枝 功(2023年4月16日 週報の裏面より)