十字架を前にして
マルコ福音書14章は次のように書き始められます。
さて、過ぎ越し祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕えて殺そうと考えていた。彼らは「民衆が騒ぎ出すといけないから、祭りの間はやめておこう」といっていた。
マルコ14:1-2
福音書はいよいよイエスの十字架の出来事がカウント・ダウンの時を迎えたことを伝えます。それは政治家、権力者による陰謀と策略から始まります。彼らはイエスの宣教活動と群集への大きな影響力に恐れをなしていました。イエスの語る福音は、バビロニヤ捕囚から帰還してから形作られたユダヤ教の律法による支配という律法主義の過ちへの狼煙(のろし)であり、当時の祭司や律法学者たちの支配体制を揺るがすものであったからです。
イエスは律法を超えた神の義と愛を語り、律法の義によって人々を支配しようと画策する祭司・律法学者に向かって律法からの解放を主張したからです。本来律法は、貧しい人々、寡婦、孤児などの社会的弱者を保護するものでした(申命記24章)。けれど律法学者、祭司は<やもめの家を食い物>にしました(マルコ13:40-イエスの言葉)。
ガリラヤの民衆は律法からの解放を心のうちに求めていましたから、イエスの示される自由なふるまいに心打たれて、イエス・キリストに神の国の希望を託して従ってきました。権威者たちはイエスを逮捕することによって群集が騒ぎ出すことを恐れました。祭りの間は避けようとしました。民衆の数の力を恐れたのです。受難物語はこのような権力者の先制攻撃に対して、イエスの周辺にいた人々の姿を対比して描きます。つまりイエスの最も身近にいた弟子たちと、弟子たちの集団には入れなかったものの、イエス・キリストを支え続けた女性たちの集団の誠実さが鮮やかに対比されます。ベタニアの、マルコ福音書では名前も記されない一人の女性のイエスへの激しいまでの愛の告白は、恐らくは誰も、彼女に向かってひとりの人間としての尊厳を表すことがなかった中で、イエス・キリストだけは彼女にかけがえのない価値を見出し、彼女自身が自分自身のかけがえなさを見出し、そこから生まれたイエス自身への深い理解と洞察によって、彼女はイエスの死を予感し、300デナリものナルドの香油を注いだ物語を記します。
それに対照的なのは弟子たちです。イエスの最も身近にいた人々。共に宣教の業を担い、召し出された人々。3年もの間、同じ釜の飯を食い、みそばで主イエスから親しく教えられたはずの人々は、イエス・キリストを敵に引き渡し、マルコ福音書では、師が十字架にかかるときには誰も十字架の側にはいなかったのです。それに比べて女性たちは十字架刑を見つめ、イエスを埋葬し、そして最初に復活の主に出会ったのはこの女性たちのひとり―マグダラのマリアでした。彼女たちこそ権力者を恐れることなく、全身全霊をささげイエスに従い続けたのです。後に初代教会は「キリストは聖書に書いてある通り三日目に復活しケファ(ペトロ)に現れ、その後12人に現れ…ついで500人もの兄弟たちに同時に現れました。」と記します(1コリント15:3)。
女性たちの記憶は、意図的にどこかに忘れ去られ、教会の指導は男性の弟子たちの手にゆだねられてゆきました。とはいえマグダラのマリアやベタニアの女性のおこなったことは「全世界どこでも、福音が伝えられるところでは、この人のしたことも記念として語り伝えられるであろう。」とイエスキリストは、遺言のように語り残したのです。
(2014年09月28日 週報より)