想定外
それが想定の範囲だったのか、そうでなかったのか。福島の原発事故収束に関して、あちこちで聞かされる責任論と、言い訳の間で事態が揺れ動きます。未曾有の地震、津波、そして原発事故。少なくともわれわれの世代にはほとんど<未経験>の領域の出来事と言えないことはありません。思えば個人の人生のレベルでも、人生には未経験で、過去の知識が、現実の問題には役に立たないということは少なくありません。また自分自身が直面している問題については、誰かに相談することはありえても、他人が解答を与えたり、決定するわけには行かないものです。
イエスキリストの弟子たちは、主イエスが十字架につけられる出来事を前に全く自分を失ってしまいました。それは主イエスの予告には言われていたものの、現実になるとは到底受け止められなかったので、全く心の準備がなかったのです。より注意深く主イエスの言葉を聞き、主の心を思いはかれれば、さほどの混乱を喫すことはなかったかもしれません。しかしそれは弟子達には<想定外>の出来事でした。つまりそんなことはあっては成らないし、決して起こってはならないことですから<想定外>の出来事として、主イエスの言葉を受け止めないことにしたのです。
人間はだれよりも自分自身のことを深く知っているはずですが、同時にだれよりも自分自身のことを知りません。自分の正義や自分の善意を 信じてやまないのですが、自分の罪や自分の邪悪さを深く知ろうとはしません。男のわたしなどは、ろくろく鏡も見ませんので、自分がどんな顔・表情をしているかさえ、よくは見ていないのです。たまたま写されたスナップショットに、がっかりしたりします。自分自身の顔・形は24時間他人の目にさらされていながら、自分で見てはいません。無表情な自分、イラつく自分、不機嫌な自分の顔をわたしは知りません・・・
ましてや、自分の内面の表情は、いよいよ知らないのです。人は生まれながらに<清く・正しく・真実>なのです。12人のキリストの弟子達も、非行や犯罪とは無縁の人々です。表面的には<清く・正しく・真実>な人間と自負していた人々かもしれない。しかし主イエスの十字架の出来事の中で、自分のうちに潜んでいた罪・虚偽性をドラマティックに体験してしまいました。それは隠したり、矮小化したりすることの出来ない大きな失敗でした。あるいはそうして起こった事を、無かった事のようにごまかさなかったことが、弟子たちの真の偉大さであったかもしれません。
人は成功から学ぶことより、失敗から学ぶことのほうがどれほど大きいでしょう。成功は人に傲慢さをあたえますが、失敗は人に謙遜さと、新しい出発をあたえます。失敗を通して自分自身がゼロであることを自覚できたとき、全面的に神にゆだねる心も与えられます。起こった<想定外>の出来事を、新たな出発点と出来るのか、あるいは、自分を少しも変えることなく悔い改めも反省も無くやり過ごすのか、個人の出来事から、原発事故に至るまで、通じるところがあります。つきるところそれが人間の問題なのです。
(2011年05月22日 週報より)