十字架の道行きのなかで
いつの時代においても冤罪事件が起こりうるのでしょう。そして権力者の手によって政治的に作り上げられた裁判も存在しす。主イエスが祭司長、律法学者によって裁かれた(?)裁判ほど不法と偽証にねじまげられた不正義によるものはなかったといえます。
イエスキリストは死刑を宣告され、服を剥ぎ取られ、鞭打たれ、いばらの冠を頭に押し付けられ、見るも無残な姿で、十字架を担って、ドロローサの道を進まれたのでした。
<ヴィア・ドロローサ>と名づけられる十字架の道行き。カトリック教会に足を踏み入れると、どの教会でも十字架の道行きに出会った人々との出会いが絵や彫刻で示されます。虐待とはずかしめられる中、重い十字架を背負って死刑場であるゴルゴタまで歩くことは主イエスには不可能でした。何度も倒れ、ローマ兵によって鞭(むち)を浴びせられても、イエスは立ち上がることは出来ませんでした。全く無力そのものである主イエスにむかって、様々な人々が違った姿を現します。
敵である祭司長、律法学者は彼らの計画が実現したと考え、歓喜したのです。扇動されて、のせられて、十字架につけよと叫ぶ多くの群衆。十字架を負えなくなった主イエスに代わって、無理やり十字架を背負うことになったクレネのシモン。この人は、この十字架の道行きの中で、主イエスとともに歩いたことが、生涯を変えます。この人の妻と子ども達はローマ教会の有力な信徒になったことがローマの信徒の手紙16章に述べられます。シモンの妻はパウロによって「彼女は私にとっても母なのです。」と言わしめます。
さらに、ハンカチを差し出したといわれるベロニカという伝説上の女性。いよいよ十字架につけられる中で、ともに十字架につけられ、死の間際に回心した強盗は、「イエスよ、あなたが御国においでになるときには、私も思い出してください」と懇願します。そして主イエスは彼に「はっきり言っておくが、あなたは今日、私と一緒に楽園にいる。」と宣言されます。また、この十字架の処刑を指揮したローマの百人隊長は、本当にこの人は正しい人だった。」と告白します。
十字架上のイエスこそ、もっとも神らしからぬ姿といえますが、ヴィア・ドロローサからゴルゴタに至る中にこうして何人もの人々の心を、回心に導かれたのでした。
そしていよいよ十字架につけられる段になって、手・足を釘で打ちつけるローマ兵にむかって、その口から語られた言葉は、もっともキリストらしい言葉が語られます。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか、知らないのです。」(ルカ23:34)
この言葉を耳にした人々は、電撃のように打たれたことでしょう。事ここに立ち至っては、絶望以外の何物でもありません。ローマだろうと、ユダヤだろうと、死刑囚にとって罵り、叫ぶことしか、何も残っていないのです。しかし、主イエスの口からは、人間を超えた許しの言葉が語られたのでした。真実にこの言葉を耳にした人々は、十字架の現実を恥じたことでしょう。そしてなおこの状況で、限度を超えた愛と許しを生きるイエスキリストに深い感動と信仰を抱き、この人を十字架に追いやってしまう人間の限度を超えた、底知れない罪におののいたのです。
クレネのシモン、母マリア、百人隊長、ベロニカ、十字架上の強盗。みんな新しい生、新しい歩みをここからすることができました。絶対に不可能とみえる状況の中で、キリストは人々に新しい出発を歩みださせました。ダメだとはなから決め付けないで、きっと出来る、キリストが私を新しくしてくださる。そう信じよう。
(2009年04月05日 週報より)