信仰の光を通して
人は当然ながら自分で感じ取り、経験したことだけを<真理><正義>と認めて受け入れようとする傾向があります。また自分の目で見て、自分の手で触れて確かめないことがらには不信感をぬぐうことが出来ないのです。もちろんそれが一方的に良くないというつもりはありません。不安に囲まれている現代世界では、<オレについて来い!式>の独裁的なリーダーを求める人も多く、他人の言葉によって簡単に動かされたり、歴史のネジ曲げや否定が平気で行われ、それにひきづられるひとが徐々に力を増しているように感じられます。
けれど過剰に他人を否定し去って、他者とともに生きるという姿勢を見失えば、ただ自分の世界に引きこもるだけということにもなりかねません。主イエスが復活されたときに、弟子トマスは他の弟子たちとは別行動でした。トマスは実証主義者であり、また他の弟子たちと群れるのを好まなかったのです。ですから他の弟子たちが口をそろえて「私たちは(復活した)主を見た。」(ヨハネ20:25)と証言する言葉を聞いて、<・・・そんなバカなことがあってたまるか>という思いがわきあがるだけでした。もしそうなら「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」という言葉にトマスの思いがこめられています。疑うトマスのために主イエスはあらためてトマスの前に現れて、「信じない者でなく、信じる者になりなさい。」と語り掛けました。
人間の<見る><聞く><知る>という能力はあまりにさまざまな要件で制限されています。そこには偏見・事実の隠蔽・不信・憎悪さえ入り込むことさえあります。人は時に希望よりもあきらめを選びます。解決ではなく、混乱を予想します。友情ではなく、いさかいに身をゆだねます。そのほうが自然で分かりやすいからです。他人を悪ときめつけるほうが、楽な一面があります。しかし結果は悲惨です。
神さまはときに思いがけない計画とご意思をもって、地上に乗り込みます。神はおられるからです。不信なトマスには自ら彼の不信を拭い取られたのです。神にはあなたのための救いの計画と意思があります。主イエスの十字架は人間にとって希望の消滅、暗黒そのものでした。けれどその時こそ、人間の救いの実現の時でした。
使徒パウロは<信仰と希望と愛>はいつまでも残ると、書きました。私たちがこれを信じ続けるか否かが、鍵なのです。
(2012年07月08日 週報より)