現代という荒れ野のなかで

3月13日(木)午後、築地本願寺で行われた<原発廃止を求める東日本宗教者シンポジウム>に行ってきました。築地本願寺は前を通り過ぎたことはありますが、中に入るのは初めての体験でした。石造りの重厚な建物は、内側はパイプオルガンも備えており、仏教のお寺というより、イタリアのカトリック教会を連想させる伽藍におどろかされました。

肝心の集会は仏教、神道、キリスト教の宗教者パネラー5人による発表を、コーディネーターをつとめられた浄土宗の住職であり、詩人で早稲田大学でフランス文学を講じる守中高明さんが取りまとめる形で締められました。以下は守中さんの言葉です。

  1. 原発は日本一国の問題ではなく人類史的な問題である。いま世界には430機の原発が存在しフクシマと同様な危機が世界に存在している。フクシマの問題とは人間みずからの手のうちには解決不可能な危険を抱えているということである。こうした時代だからこそ、命を重んじる視点に立つわれわれ普遍的宗教者の責任は重い。
  2. 原発は軍事産業との深いかかわりを持っている。平和な原子力というものは存在しない。原発廃止と核兵器の廃絶は二つにして一つのことでなければならない。
  3. 日本においても一部の富裕層にたいして、貧困においやられている人々が増えつつある。先日、ドイツの放送局ZDFがまとめたドキュメンタリー番組を見た。フクシマ周辺で原発事故の処理にかかわる作業員は、暴力団によって送り込まれた多重債務者、路上生活者が多く存在する。被ばくし、使い捨てられた人々は何の保証も受けられないひとびと。さらなる差別を恐れ、自らの過去をひた隠しにして生きてゆく人が多い。
  4. 放射能被害というものは万人に平等にふりかかるわけではない。こうした名もない人々の犠牲の上に、われわれの平穏な現状がつくられている。日本においてもこれら最底辺の人々に原発事故はのしかかり、この人々はいよいよ使い捨てられる。だからこそわれわれ宗教者はいよいよ祈らねばならない。行動しよう。全原発の廃止を進めるために。

なんというサタニックな世界。先週は原発とは関連はありませんが、マレーシア航空の旅客機が消え、おそらくハイジャックにあったのではないかと伝えられています。世界はいつ来るかもしれない苦難や、解決の見えない問題に囲まれています。しかし原発もハイジャックもそれを誘い出す私たちの世界には、人の欲望やさらなる利便性を必要とする背後に耐えがたい差別や、その陰で犠牲を強いられる人々の苦しみと怨念が隠されています。

この春を待ち望む季節は、同様にキリストの十字架を思う四旬節のさなかです。キリストが自らの肉体をもって贖われたのは、すべての人が平和で意味ある生を生きるためであることを一層深く受け止めたいと思います。

(2014年03月16日 週報より)

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