愛される特権
以前からあったことですが、最近、毎週のように幼い子供への虐待事件が伝えられることに心が痛みます。虐待をした人が、ほかならぬその子を生んだ母親であるケースも少なくなく、なぜ?と思うこともしばしばです。一方で日本は空前のペットブームでもあると聞きます。確かにペットもいわば家族で、こころつながるペットを大切にする気持ちはよく分かります。わが家にも迷い犬<コタロー>がおり、毎朝・毎夕の散歩を欠かしません。しかしたとえペットであっても、気の向くままにかわいがることだけをしている飼い方と、責任ある飼い方をするのとは違うように思います。しばしば夏のリゾートで、夏休みにつれてこられたペットがそのままうち捨てられて、迷い犬になるというケースが伝えられます。その場かぎりの慰めとして連れて来られても、犬や猫にとっては大変迷惑なことです。愛されてはいないのなら。
単に自分の慰めのためだけに動物を飼うという飼い方はありません。ましてや人間の子供には、あまりにも当然ですが、いかに幸福感で包まれるかこそ大切です。母親にしても、父親にしても、子供を育ててゆくことは、あまりにも日常的で、当然で、金銭ばかりでなく、忍耐と苛立ちと、自分の弱さすらさらけ出さねばなりません。それだけに、じつはかけがえなく尊いできごとです。何もかもが金銭で測られる社会のなかで、子育てはあまりにも地味で当然な日常かもしれません。新聞など見ればスポーツ選手の業績は獲得賞金や、契約金ではかられ、わたしたちの目から見ればそれは天文学的です。
そうしたことで測られる有名人、学者、スポーツ選手と引き比べると、普通の人が行っている社会生活は、金額に比例してつまらなく、意味がないことのように受け止められるかもしれません。でもそれはまったくの誤りです。白鵬や斉藤祐樹や石川遼も、ファンには申し訳ないけれど、彼らの代わりはいくらでもいます。けれど母親の代わりになれる人は居ないのです。その母親に見捨てられたら、子供は精神的には生きてゆくことはできないでしょう。ましてや虐待を受けた子供はどれほど傷つくだろうか想像を超えることです。子供にとって親から無条件で愛されることは原則的に必要欠くべからざることです。それはじつは大人、子供の区別もなく、じつはわれわれすべての人間はそうした存在なのです。
ただ、人の愛はたちまちに崩れます。愛していたかと思うその愛が、たちまち憎しみに変わることがあります。愛と憎しみは1枚のコインの 表と裏と言われもします。なぜ2歳、3歳、4歳という天使のような子供たちが、死に至るまでの虐待で短い生涯を閉じることになるのか。そんなことになるなんて、手を出した親でさえ予想を越えた事態であるだろう。おそらくそこにあるのは、周囲と隔絶された孤立ではないだろうか。相談できる親しい友人がいれば、出入りする交わりがあれば。なによりも心ゆだねて祈る神を持っていれば、虐待とは異なる別の方向が見出せるのではないだろうか。
(2012年02月26日 週報より)