聖霊は道を開く

若くても、高齢期を迎えても、生きることの重荷は少しも変わらないような気がします。人生にベテランはいないのでしょう。<きのう>と<きょう>は全く違う未体験の日なのです。違っているからこそ、今日はいっそう新鮮で、心ときめくこともある。

イエスキリストの弟子たちは最後の晩餐からそのあと、あのようなみじめな失敗を犯す時がこようとは、夢にも思っていなかったでしょう。主イエスのもとに召し集められ3年。弟子訓練の期間はほぼ終了し、主イエスを囲む何層もの弟子たちのうち、彼らは最も主イエスの身近で、コアな中心的弟子と目されていた…(と彼らは思っていた)。ところがそこから起こってきた一連の出来事の中で、決して起こしてはならない、イエスの弟子であることを否定するという大醜態をさらしてしまったのです。

実は予兆は既にありました。主イエスが近づく十字架の死におののき、恐れていたとき、弟子たちは「自分たちのうちでだれが一番偉いのか」を議論していたのです(マルコ9:33-37)。劇的に近づいている危機に、陥れようとする敵の悪意も、またその結果を引き受けるようになる自分自身の内面も、弟子たちは何も知らないのです。確かに人は自分自身を知らないのです。自分がだれで、自分が何者であるかをあまりに知りません。自分は生まれながらに善良で、真実この上もない。だからこそ自分こそ第一の弟子なのだと、競い合うことができた。

その弟子たちは、競い合うように、イエスを裏切った。天国のカギをゆだねられたペトロは3度<その人を知らず>としらを切り、弟子たちの会計を務めていたイスカリオテのユダは、銀30枚でイエスを敵に売り、偽りのキスがイエスを指し示すサインだった。直前まで我こそは一番の弟子と権力闘争を繰り広げてきた弟子たちが、状況が一変すると12人が12人、弟子であることを否認したのです。12人は主イエスが直接見込んで選ばれた特別な存在でした。その結果がこの裏切りでした。

立ち上がれないほどの大醜態をさらして50余日。弟子たちに聖霊が下りました。人は失敗を通して学ぶといいます。どうにも言い訳もつかない失敗の中で、彼らは自分がゼロでしかない、ゼロ以下の人間であることを思い知らされたでしょう。つまり全面的に神に従うことを学ばされたのでしょうか。

50日前に主イエスを裏切った弟子たちと、生まれ変わった弟子たちは一人いなくなっていましたが、全く同一人物たちでした。人は神によって変わりうる。同じ神が私たちとともにいてくださり、私たちの日々を豊かに変えてくださる。今日は聖霊が下り、教会が生まれた聖霊降臨節です。

(2015年05月24日 週報より)

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