クリスマスを待つこころ

今年もアドベント(待降節)を迎えました。この年、日本は東北から関東に至る太平洋岸を地震と津波に洗われ、これによって引き起こされた原発事故の影響がどこまで広がるかは、まだ全体像も分からないものらしい。しかもなおわたしたちは地震の巣の上に日々を送っています。日本に生活している人は、明日、被災者である可能性は誰にでもありうることです。自分の人生は、戦争も、災害もない平穏無事な時代に身をおいていたと思いかけた私でしたが、それは勝手な思い込みに過ぎなかったのかもしれません。その年のクリスマスを迎えようとしています。

クリスマスには無数の物語が書かれています。クリスマスを題材とするかぎりにおいては、物語は心温まる忘れがたい話が多く、<悲劇>は多くはありません。しかしディッケンズのクリスマスキャロルにしてもそうですが、物語の中心にかかわる人々はとても貧しかったり、病気であったり、この世的に不遇な人々が多く登場します。そうしたこの世的に言えば不幸につながる状況を静かに受け入れ、それでも私は希望と喜びを捨てずに生きてゆく、というメッセージが語られる物語が多いのです。

2011年のアドベントを迎える東京で、ともかく、住む家があり、働く職場があり、いちおう健康で・・・つまり生きてゆくうえで基本的な条件が支えられているにもかかわらず、自分こそ世界で一番不幸なのだというような心の思いで日を過ごしている人々は決して少なくはありません。

人が幸せかどうかということは、有名になって、成功して、豪勢な屋敷に住むかどうかとは無関係です。たとえ病を得て、体が多少不自由になろうとも、不幸とは無縁です。幸せとは人が幸せであると気づくかどうかにかかっているものだからです。ですから社会的には不幸だときめつけられた人が、輝くような幸せを握っているかと思えば、幸せに違いないと思われている人が、自分ほどの不幸な人間はいないと思い込んでいることもしばしばあるのです。

申命記にこういう言葉があります。

イスラエルよ、あなたはいかに幸せなことか。あなたのように主に救われた民があろうか。

申命記 33:29

イスラエルの人々に試しに聞いてみたらいいかもしれない。「あなたたちは世界で一番幸せな国民ですか?」
多くの人は答えるでしょう。 「とんでもない。」
<私は幸せだ>と言いえる人は、おかれた社会的な環境・状況とは無縁なのです。ですが、少なくも人が神と出合うと、あの羊飼いたちのように、彼らをめぐる状況は何も変わらなくても、「羊飼いたちは・・・神をあがめ、賛美しながら帰っていった。」
神をあがめること、賛美することは、この人生を喜ばしく肯定することです。本当はこの上ない幸せな人生なのに、不幸として受け止めているなら、それこそ、思い違いなのかもしれない。

(2011年11月27日 週報より)

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