涙
昨日は終戦記念日でした。ありとあらゆるところで人々は逃げまどい、肉親を失い、孤児となり、中国においては日本人の数知れぬ赤ん坊が捨てられ、中には中国人が、自分の子どもとして広い親代わりとなって育ててくれたのでした。数え切れない悲しみ、痛み、なお癒されない苦しみが人々の心に納められています。そして、その何倍もの加害をアジアの人々や、捕虜として捕らえられた兵士達に加えたことも、記憶されています。
ヨーロッパにおいては、積年の敵意をのりこえて、通貨が統一され、域内のどこかに入国してしまえば、パスポートのチェックもありません。やがてはEU憲法が発効することになるでしょう。アジアには、はたしてそうした可能性はあるのでしょうか。とはいえ、われわれ民衆レベルで、友好、友情の固い団結を育てる中に、希望あふれる未来を夢見たいものです。じつは<喜びなさい>とわたしたちに命じる聖書は、 涙に関する語りかけが意外に多いのです。
あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。・・・あなたの皮袋にわたしの涙を蓄えてください。
詩篇56:9
「涙と共に種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は 束ねた穂を背負い 喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」
詩篇126:5,6
本来なら喜びそのものであるワインがなみなみと注がれる皮袋に、実はとめどない涙が、あるいは血液そのものが注ぎ込まれる経験は、だれにもあるのではないでしょうか。なんと言うことでしょう。涙も、血液も、流れるときは、びっくりするほど流れるものです。ヨブも、ダビデも、ペトロも、罪の女も、そして主イエスご自身も、涙の人でした。涙は悲哀そのものです。確かに喜びの涙と言われるものもあります。しかし、喜びの涙といいますがそこに至る長くつらい問題、懸案が、そこには乗り越えられなければならなかったはずです。
日本の伝統的な人生観では<家内安全><無病息災><商売繁盛>です。つまり悩みや痛みを心に、肉体に持つ人は、忌避されるのです。心や体に痛みを持つ人は、しばしば敬遠され、除外され、ついには切り捨てられるのです。ですが神は悲しみを心に持つ人、痛みを負っている人に近づかれます。
「神は彼らの目の涙をことごとく拭い取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも労苦もない。最初のものが過ぎ去ったからである。」
黙示録21:4
主イエスが地上においでになったとき、人の目から涙を拭い取ってくださり、今も心から心へ傷をいやし、心を癒してくださるのです。人間存在とはあまりに限界を抱えたものに過ぎません。主イエス派の心は無限で広大です。すべての人の訴えを聞き、時を過ごし、救います。その人を助け、この主イエスに信頼を託し悔い改め罪を許され、出直すとき、すべての涙はぬぐわれ、真の喜びに到達するのです
(2009年08月16日 週報より)