み言葉にささえられ

「はじめ太初にことば言あり、言は神ととも偕にあり、言は神なりき。この言は太初に神とともに在り、萬の物これに由りて成り・・・」

ヨハネ1:1 – 3

言葉は生をうけた時より与えられた大切なものです。何気なく口から出た一言でも、人を傷つけたり、慰めを与えてくれます。物忘れ、短気、急にあらわれてくる種々の病など、老境に入ったことを痛感する毎日。夫は長年の慢性病(約40年近く)で、少しでも良くなりたいと努力した時期、挫折して、もう治らないのだからと落ち込むことの繰り返しの中で、気持ちが過敏となり、加齢とともに思う様に体が動かないと焦立ち、底抜けに明るく寛容な夫でしたが、他の人の些細な言動が身にこたえてしまい、暗くなりがちです。その夫は20年前にはじめて入院して、幸い無事に退院出来ましたが、信頼する主治医のT先生が故郷で開業されることになり、夫はひどく落胆しました。「その時にT先生が『決して絶望してはいけませんよ。医学を信じて下さい。これから良い薬も出来ます。若い先生方も一生懸命やって下さるのですから、信じて治療して下さい。』と言われた。それからことある毎にT先生の言葉を思い出し、「努力しようと思って来たのだよ。心の支えにして。」と夫は申しました。患者に話して下さったT先生の言葉が、ずっと長い間、夫の闘病生活の支えになっていてくれた事に、改めて深く感謝しました。

私は長い結婚生活の中で、随分夫に対してひどい言葉で傷つけたり、取り返しのつかない事を言ってきたと思います。いつだか夫が「二人で随分危ない橋を渡ってきたね、よく乗り切ってきたね。」としみじみ申しましたが、その通りで、夫婦間のことというより、お互いの家族のいろいろの問題で、夫婦別れするしかないと思ったことも幾度かありました。とことん話し合い、相手を責めたり、それぞれの置かれた立場を改めて確認し、頑張っていこう、つまらない考えはやめようと思うまで何日もかかりました。その時に改めてお互いに相手への理解、いたわり、愛情が深まったと思いますが、自分をさらけ出しぶつかってゆく、格好をつけていては駄目です。勿論、神さまへも真剣に祈り求め、苦しい時を経験しました。

私はこの文を書くにあたり、中学生時代の聖書を取り出してなつかしく読み返しました。ところどころに線が引いてある。素晴らしい文語体の詩篇23篇は、日曜学校の礼拝の時いつも読みました。
「エホバはわが牧者なり。われとも乏しきことあらじ・・・たとひわれ死のかげの谷をあゆむともわざわひ禍害をおそれじ、なんじ我とともにいま在せばなり・・・」
大好きな詩篇です。又、その頃意味がよく理解しにくかったみ言葉を記します。
「なんじら人を審くな、審かれざらん為なり。おの己がさばくさばき審判にておのれ己もさばかれ、己がはかるはかり量にて己も量らるべし。何ゆゑ兄弟の目にある塵をみて、おのが目にあるうつばり梁木を認めぬか。・・・」マタイ7:1 – 3

目に塵が入ることは分りますが、何故に太い梁木が目に入ることが出来るのかと、とても悩んだ思い出です。先生にお聞きすればよいのに、それも出来ませんでした。不思議な箇所として、ずっと心に残り、その意味が理解出来てからも、私への戒めのみ言葉として、何かの折りにはっと甦ってくる、貴いみ言葉です。聖書を拝読し、今の私を省みる時、まことに恥ずかしいです。
真剣に祈り求めているでしょうか。きちんと聖書拝読しているでしょうか。神様はいつの時も教え導いて下さっている事を、神様の憐れみを、深く感謝して、この拙い文を擱きます。

TY姉(由木教会員)(2005年12月11日 週報より)

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