信仰による出発
長らく日本やアメリカは<競争社会>である、という言い方がされてきました。しかし昨今では<競争社会>から、<格差社会>という言い方に移ってきたといわれます。<競争社会>でも、努力すれば報いられ、一度は与えられた競争に勝てなくても、次のチャンスでは、再び浮かび上がることができる、勝ったり、負けたりしながら、お互いが高められていくというのであれば、競争も悪いばかりではないでしょう。競争は、平等であること、フェアー(公正)であることが確保されなければなりません。それなしには、競争は名ばかりの、ひどく公平を欠いたものでしかありません。
もっとも、人生を一つのレースと見る時に、スターティング・ポイントである誕生は、人によって不公平きわまるものです。人は親と誕生を選ぶことができません。親となった人の人間性、教育観、財力、本人の健康ですら、生まれてくる人の意志とは無関係に、人は生まれます。生まれた場所が、平和な国か、飢餓や紛争地か、ということでもその後の人の人生は、激変するでしょう。人は与えられた公平とは言い兼ねる条件を背負って、競争社会を生き始めます。けれど不思議なことに、与えられた生の条件と、人生の幸・不幸はの感覚は、別のものです。貧しいから不幸だということは出来ず、親が知的だから、幸せだということにもなりません。人が生きる人生の状況は、ひどく不公平に見えながら、人生全体で見ると、見かけの不公平を逆転する、個々の人生の価値観や生き方があります。
人生は進み行くに従って、公平を取り戻します。年令を重ね、そして迎える終りの時。途中においては多少の贅沢をし、他人を見下げた人も、やがて平等に死につくのです。しかしキリスト教信仰から見る人生観は、そうした人生の風景を、まったく違って見せます。
まず人を<優劣> <上下> <格差>で見ることをやめます。人は連帯し、重荷や苦しみを分かち合う存在として手をたずさえます。人生は死をもって終わるものではなく、人の想像をこえた、永遠の世界が見つめさせます。与えられた人生は、永遠をきめる準備の時、離陸の時となります。ふつう世の中ではしばしば関わりあいを避け、交わり拒んだりすることがあります。しかし信仰者はすべての人と連帯し、兄弟姉妹として向かい合います。信仰者は<私だけの世界>に閉じこもることをしません。信仰者の主語は<私たち>なのです。
主イエスキリストが、その生涯の終りを過ごしたのは苦しみの十字架上でした。そこに共に二人の犯罪人が同様に十字架につけられたのです。しかし、そのうちの一方の犯罪人は、そこで主イエスに赦しを乞い、悔い改めたのでした。犯罪人にとって、それはこの世の人生の最後の時でしたが、そこから永遠をスタートしたのです。人生は終えてしまえば泡沫(うたかた)のように短い時です。しかし、この人生が、永遠を決めます。だからこそ、与えられた条件下、人は希望をもって力をつくします。そして再生の出来ない人生、追い付くことの出来ない人生など、キリストにあってはないのです。
今日は復活の朝。キリストは死を打ち破ってくださいました。人生の希望はここにあります。見かけだけの<競争>や<格差>をこえる秘訣があります。
(2006年04月16日 週報より)