主イエスにであう

イエス・キリストの十字架の道行きは<ヴィア・ドロローサ>-悲しみの道ともいわれる苦難の道でした。徹夜に及ぶ裁判そしてローマ総督ピラトとヘロデ王の前に引き出され尋問され、やがてそれだけでも死に至るほど残虐な鞭を打たれ、人の体重ほどもある自らが釘づけになる十字架を担わさせられたのでした。ある作家は小説の中でイエスが担おうとした十字架は70キログラムと書いています。鞭で引き裂かれた背に、それが可能なわけがありません。そこでローマ兵は、やじ馬のひとりとして立ち尽くしていたキレネ人(今の地名ではリビヤ)のシモンに目をつけて、彼に十字架を担がせたのです。アフリカから来たシモンは、ほかの人々から比べると浅黒かったかもしれない。シモンにとって見ればその指名はどんなにはた迷惑で困惑することか測り知れなかった。できればその場所から遁走したかった。でもローマ兵から逃げ出すことなどできない。十字架はすでにイエスの血と汗にまみれていた。ローマ兵が親切にイエスの血と汗をぬぐってシモンに渡したはずはない。そしてなにより、とても重い。

シモンはなんて運の悪い日だ、と思ったに違いありません。ヘタをすると、イエスの代わりにローマ兵の鞭が飛んでくるかもしれない。恐怖と、自分の運のなさに泣きたい気持ちだっただろう。しかしこの出来事を最初に描いたマルコ福音書には<アレクサンドロとルフォスの父でシモンというキレネ人が・・・>と紹介されているのです。のちにパウロがローマの信徒への手紙16:13節に「主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女は私にとっても母なのです。」と書き送っています。つまりアレクサンドロとルフォスというキレネのシモンの息子たちはキリスト者であった。そして、その妻は使徒パウロにとって母のような信頼できる女性だった。

おそらくキレネ人シモンは、あの日、十字架を担えなくなったイエスに代って、むりやりイエスの血の付着した十字架を担わせられた。かれはじぶんの身の不幸を呪った。しかし実はシモンこそ地上のイエスの最後の教えをきくことのできた人だった。その時主の弟子になったか、あるいはその後だったかはわかりません。しかしそうしてイエスと出会ったことは彼の心に深く刻まれる出来事だった。やがてこの上ない不幸と受け止めた出来事が、実はそうではなかった。その正反対の出来事だったと気づいた。彼は自分の経験を妻に話し、やがて生まれてきた二人の息子にも話した。キリスト教信仰を生きるがゆえに家族はことによると離散したかもしれない。しかし距離は離れても、家族は一つの信仰という絆で固く結ばれた。

(2015年08月30日 週報より)

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