主に、たち帰る

立ち帰れ、あなたの神、主のもとへ。あなたは咎(とが)につまずき、悪の中にいる。・・・ 「すべての悪を取り去り 恵みをお与えください。わたしたちはもはや軍馬に乗りません。自分の手が造ったものを 再びわたしたちの神とは呼びません。」

ホセア書14:2-4

預言者ホセアが<主に帰れ>と呼びかけた相手は、異邦人ではなく、イスラエル民族そのものに向かって呼びかけた言葉でした。しかしこれを聞いたイスラエル人たちは、「なんと言うことをいうのか?」とけげんな感触を持ったことでしょう。
<自分たちは、聖なる神の民。主に帰らねばならないのはアッシリヤ人やバビロニヤ人であって、われわれではない。われわれは清い、ホーリーピープルなのだ。>
しかし預言者の目は、だれよりも先にまず神に帰らねばならないのは、イスラエル人であると見ていたのです。宗教のかたちはあっても、イスラエルの心は神から離れてしまっていたのです。同時に、道徳的にも神のない民と五十歩百歩だったのです。

信仰者といわれる人々は常にそうした誘惑にさらされるのかもしれません。長い歴史と伝統に育まれた神の民イスラエルがそうであるなら、 われわれにはさらに現実的にそうした可能性は身近にあるといえるのかもしれません。選ばれた神の民として、律法が与えられ、神殿を建設し、世界が神の祝福に彩られる<祝福の基>として選ばれた聖書の民。しかしその神殿こそ、その中心部から非ユダヤ人を追い出し、差別を固定化しました。エルサレム神殿こそ、世界のどの民族、国籍、身分、皮膚の色による差別が撤去される第一の場所でなければなりませんでした。差別は制度-つまり政治問題ではなく、神の前における問題でした。

しかし、やがて造られていった教会も、エルサレム神殿同様、様々な人種差別、民族差別、性差別を内包しつつ、そこにあぶりだされるおのれの姿におののきながら、重い腰を上げ、一歩一歩改革に身を乗り出してきたというのが、現在の姿でしょう。旧約聖書のイスラエルの人々は、形式的には確かに神殿を通しての信仰生活を誇りとしましたが、他方で様々な差別を持ち込みました。そして現実生活の中では金の子牛をはじめ、様々な偶像礼拝が絶えませんでした。金の子牛はエジプトの政治的経済的安全保障と経済的繁栄への思いがこめられた願望でもありました。

イスラエルの民の偉大な部分は、そうした恥・負の部分をさらけ出して、自らの過去を見つめなおそうとした点です。見えない神を信頼することはそれだけ困難なことです。

<神に帰らねばならなかったのは、異邦の民でなく、イスラエルそのもの。われわれなのだ。>というメッセージはそのまま、わたしたちに差し向けられます。それは<自分のような成熟した信仰者には無縁な問いかけ>とすり抜けていた、根本的な問いかけをこそ、大切に聞き取るものでありたいと願います。

(2010年07月04日 週報より)

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