信じることは、こころの休息です
ゴールデンウイークの最中です。そして今年のゴールデンウイークは長いらしい。そも5月4日を<みどりの日>とか言う意味不明の休日にして、休みをそろえたこともあるし、そのうえ最近の経済環境も手伝って、10日を越える休みが与えられた人々もいると伝えられました。せっかく与えられたお休みですから、多忙さのゆえに日ごろ会うことの出来ない人と会ったり、疎遠になりかけている人間関係を復活する機会になります。
人生において何が大切といえば、人との交わりであり、誰に出会うのかと言うことこそ、人生そのものです。幸せな人生かどうかは、だれに出会うのかで決まります。そうした言い方をすると、人生はばくちのように、不確定要素にあふれたものになります。思いがけないことが次から次にあるのが人生ですから、人生には確かにばくち的要素がなくはありません。しかし出会いに関する限り、人はやはりその人らしい出会いを選び取っていくもののようです。
出会いといえば、人は人に出会いますが、永遠なる神とも出会います。神は「永遠を思う心を人に与えた。」(コヘレトの言葉3:11)からです。ですからそれは多数派とはいえなくても、教会の戸をたたく人は、たえません。自分の人生に希望を絶やさずに、意味を問い、充実した人生の歩みを願う人にとって、キリストと出会うことは欠かすことができません。
後に世界宣教者パウロとなったその人は、出自にしても、身分にしても、学歴も、非のうちどころのない輝かしい社会的位置にありました。 しかし、この伝統的ユダヤ教に根ざし、十分に知的で、社会的にも、経済的にも満ち足りていた人がたどり着いたさきは <女も、子供も、キリスト者と見れば、殺害と迫害の息をはずます>一介のテロリストに過ぎなかったのです。のちにキリスト者とされたパウロは謙遜と愛に満ちて幾多の迫害を耐え、宝石のような美しい言葉にあふれた書簡を生まれたばかりの教会に送り、それらはそのまま聖書の言葉として記憶されました。かつて原理主義ユダヤ教の中にいたこの同じ人が、人生を踏み外し、間違った人生を歩み、多くの罪もない人々を手にかけたとは信じがたい真相です。知性にみちていたパウロですら、あやまてる信仰は人生をおとしめます。
「人生の土台に何を据えるか?」
実は大切な問いです。ストレス解消に現代人が求めるのはレジャーであり、アルコールです。もちろん、それらがある程度の効用のあることは否定しません。けれどレジャーやアルコールも、根源的なこころの充足があってこそ、人生を豊かにするのです。それなしにはむしろ逆効果をもたらしかねないことに世の人々は気がついていないのです。問題に目を向けることはしたくないものです。
しかし人間存在はあまりに問題にみちていることです。50歳代、60歳代を迎え、人間はいよいよわきまえを身に着けているはずですが、実はそうではありません。むしろこころの中に、新たな問題を抱え、わきまえとはほど遠い様々な問題性に気づかされるばかりです。
嵐の中にある船は、積荷を捨てます。余計な積荷は船全体を危険にさらします。ティリッヒという神学者は信仰は<究極的関心事>と述べました。最終的に何が大切なのかを、自分はどこに全体重をかけるべきなかを、知るべきです。何がわたしたちに本当のこころの休息をもたらすのでしょう。信仰はアクセサリーでも、趣味でもありません。そこにこそ、ほんものの解放と休息があります。
(2009年05月03日 週報より)