キリスト教は、原子力発電所といったいどのような関係があるのでしょう

「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。」

マタイ5章14・15節

私たちの生活に欠かせない電気エネルギーをどのような発電手段によって得るのかというエネルギー問題は、一見してキリスト教会あるいはもっと広く言えば宗教的な側面から取り組むべき課題とは思えない方も多いかと思います。しかし私たちはどのような発電技術を選択するのか、これまでのように原子力発電を推進していくのか、それとも廃止に向かうのかという点について、キリスト教には大きな責務があります。なぜならば、キリスト者には「神の作られた被造物への責任」があるからです。

地球の環境問題は、キリスト教信仰にとって無関係ではなく、むしろ私たちの信仰そのものが問われている根本的な問題なのです。以下では、「ドイツの教会は原子力とどのようにむきあってきたのか 被造物への責任」と題する文章(木村護郎クリストフ2011『原発とキリスト教』新教コイノーニア26、新教出版社所収)を参考に、少し述べてみたいと思います。

私たちはどのようにして、地球の環境問題あるいは原発の是非といった大きな問題に取り組むことができるのでしょうか? エネルギー選択そして原子力発電所については、様々な側面から論じられています。政治的あるいは経済的そして科学技術的な分野については、それぞれの専門家が論じていますし、私たちも教会を離れて一般市民として論じることもできるでしょう。しかしキリスト者としてあるいはキリスト教会として論じなければならないのは、その倫理的な側面についてなのです。

エネルギー問題は、単に政治・経済的な側面からだけではなく、主の示される公正さ(フェアネス:スポーツなどでフェア・プレイと言う場合の「フェア」の名詞形)という倫理的な観点から論じられる必要があります。果たして原発を巡る地域間において、公正さは確保されているでしょうか? 何故、大都市で消費される電力が過疎地に存在する発電所で生み出されているのでしょうか? 世代間において公正さは確保されているでしょうか? 発電所自体を解体し廃炉にするのに40年あるいは50年以上もかかり、高濃度の放射性廃棄物についてはその最終的な処分方法すら定まっていない現状は、私たちが子どもたちに負債を押し付けていることにならないでしょうか? あるいは原発の最前線で働いている人々に、私たちは危険な作業を押し付けていないでしょうか?

教会そしてその構成員であるキリスト者は、とりわけ原子力発電所に関する倫理的問題について、この世に向けて積極的に発言することが求められています。信仰的にも、私たちにはそうした責務があります。

「安全な原発」などというものが有り得るのでしょうか? あるいは「原子力の平和利用」といったことが述べられます。こうした人たちが述べる「安全」とか「平和」といった言葉そのものが、本来の言葉の意味からずれている、さらに言えば間違っている(誤用)としか思えません。

同時多発テロの後からでしょうか、東京でも「特別警戒体制」とやらで、駅のゴミ箱やコインロッカーが封鎖されたり撤去されたりしたことがありました。その当時と比べて世界がより安全になったとは思えませんので、「特別警戒体制」は今も続いているのかも知れません。しかし本当に日本を攻撃しようと考える人がいたら、駅のゴミ箱などを狙わずに、福島第1原発の4号機にちょっとした仕掛けを施すだけで十分あるいはそれ以上の目的を容易く果たすことが可能なのです。原発を推進する人たちは、こうしたことを決して口にはしません。

原子力発電所は、その存在自体が、神から与えられた大地を耕し守り育て次の世代に引き継ぐという聖書的な課題と両立し難いことが明らかになりました。私たちは、自らの信仰に基づいて、一人一人が今何をなすべきか、神の前に立ち示される道を歩まなければなりません。

美しい大地は 私たちの神が 与えられた恵み 貴い贈り物。分け合い 助け合う 希望満ちる大地 そのすべての物は みんなの嗣業だ。

『讃美歌21』#424「美しい大地は」

五十嵐 彰 (2012年02月12日 週報より)

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