国を超えて

主イエスは福音の宣教をその生涯の使命となさいました。そしてその福音はたしかにまずユダヤ人に向けられましたが、決してユダヤ人だけに限られたのではありませんでした。イエスの福音は最初から人種と国境を越えたものでした。国家として政治的な実権を奪われていた当時のユダヤ社会はいっそう国粋主義、原理主義に傾く中で、主イエスの眼差しは世界の人々に向けられていました。スカルという町でサマリアの女性が主イエスに救われ、すぐさま主イエスを伝える弟子になりました。サマリア人とは、南北に分裂したイスラエル国家が、やがてアッシリア、バビロニヤに滅ぼされた後、捕囚と亡国の悲劇の中で打ち捨てられ、置き去りにされたユダヤ人と新たに連れてこられた周辺民族出身者とのあいだに生まれた人々によって成り立った人々でした。人種的にも、文化的にも最もユダヤ人に近い人々です。しかしユダヤ人たちはその<近さ> <些細な違い>が許せなかったのです。

ユダヤ人たちは徹底的に差別し、見下し、憎悪にかられました。個人と個人はなんら憎みあう必要などどこにもないのです。しかし指導者や政治家が、歴史的、民族的偏見を利用して民衆を動かそうとすると、しばしば人々は、それにやすやすと乗せられるものです。われわれ日本人もまさにその轍を踏んだのですし、それは世界中で繰り返し起こっていることでもあります。しかしイエスキリストは偏見のかけらも持たなかったのです。民族差別だけに限りません。主イエスは人々から捨てられた重い皮膚病を持つ人々、徴税人、罪びと、娼婦を、友と呼びました。当然ユダヤの権力者たちはそうする主イエスを正気とは思わなかったでしょう。そのように行動するイエスを口汚くののしりました。悪霊に憑かれた、神の冒涜者とよびました。

やがて教会の基礎が造られはじめると、人種や民族的偏見のみならず、奴隷や自由人という階級的な差別もこえられ、外では貴族である人も、教会では奴隷である司祭に導かれるということが起こっていったのです。これは教会のもつ宝物です。しかし、ある時代には、教会がインディオや黒人奴隷への非人間的な差別に手を貸したり、ナチ政権に対し、ユダヤ人迫害に沈黙する代わりにカトリック教会の迫害に乗り出さないよう取引をしたり、最近ではオランダ改革派教会の流れをくむ南アフリカの白人教会が、アパルトヘイトを容認したりということがないわけではありません。しかし明々白々とした主イエスの言葉は、そうした過ちをいつも正すのです。

いつの時代にも、どこの国にも外国人が近くにいます。私たちも国外では外国人です。外国人というと問題を持った人のようなイメージが生まれつつあります。偏狭な民族主義、国家主義をいかに超えるかが現代世界の課題です。昨日の新聞で、ワールド・カップ・サッカーでイタリアとの試合を控えたアメリカチームのメンバーが「われわれは勝ちに来た。サッカーは戦争だ。」と言ったと伝えられました。何か思い違いがあるようです。
外国人を豊かに受け入れながら、なお国家建設を目指して行った国家は、しばしば世界帝国を作り上げました。違いが他者を豊かにする民族性を生かすところに真の強さが生まれます。イエスキリストのあり方はその原点を示しているように感じます。

(2006年06月18日 週報より)

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