自らを省みて
だから、熱心に悔い改めよ。見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開けるものがあれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。
黙示録3 : 19,20
悔い改め、罪の告白、謝罪は信仰者に与えられている特権とさえいえるものです。これなしに信仰者としての歩みは始まりませんし、また前進もありません。主日礼拝も、一週をふり返っての、悔い改め、罪の告白、謝罪のときでもあります。人はけっして完全ではありえません。弱く、罪深い存在にすぎません。罪を自覚できることは、恥ではありません。むしろ罪に無感覚な人々より、すこしは(?)神に近くあることが出来ます。罪を罪として自覚できない状態とは、良心が麻痺している状態です。
以前、法務省が重刑法犯の受刑者に「あなたは本当に悪事に手を染めたという意識がありますか?」というアンケート調査をしました。殺人、強盗という恐るべき犯罪を犯した人々ですから、当然「自分は悪かった。申し訳ないことをした。」という答えが戻ってくると思いきや、実態は、逆でした。回答の8割が「自分は悪くない。社会や、たまたまそこにいた人(つまり被害者)が悪い。」と書いて来たのだそうです。人間とはどこまでも自己を正当化する存在です。まるでヒトの遺伝子の中に深く刻まれているかのような印象があります。そうした体質は、わたしたち自身にも通じるものであり、彼らを笑える人はどこにもいないのかもしれません。
信仰者とは神の前に深く罪を認めて、悔い改めに立つものです。しかし、他方で自分自身が神に救われ、清くされて、罪の根が取り去られて(?)、正された、と考える人もいないわけではありません(根絶説とか言うらしいのです)。ですが過ちを犯さない、絶対的に正しい人間など存在するはずもありません。にもかかわらず、そうした誤まった信仰的確信に立てば、逆に罪を自覚するきっかけすら持ち得ないことになります。彼は、自分だけは正しくて、周囲の人間を正せねばならないと考えるかもしれません。ばかげた考え方ですが、そういう人は意外に多くいるものです。
しかし見方を変えれば、そう思い込むことは、人格が幼いだけのことです。人が数十年その人生を生きつつ、ひとは他者との間に小さくとも確かな誠実さや愛をはぐくんで生きます。そうして交わりの質を深めたり、高めたりしていくものです。
しかしながら、現代社会では目に見える形の物理的な暴力、目に見えない精神的な暴力も少なくないと伝えられます。家庭の中で許されないほどの暴力を振るう夫たち。アメリカでは全女性の25%、日本では20%がその犠牲になっている(総務庁調査)とあるDVについての本には書かれていました。おどろくべき数字です。あらためて最近、人の心の恐ろしいまでの暗闇を感じるのです。
だからこそ、ひとは神の光に、心照らされて、新たな悔い改めと、告白に生きる機会をえるべきなのです。主の礼拝に与る意味あいは、そうしたことにも及びます。怒りや、苛立ちや、憎悪が心を支配する前に、キリスト の平和に支配されますように。
(2008年05月25日 週報より)