名乗らぬ人に向かって
教会に身をおいていると、様々な電話がかかってきます。時折、相手は名前を告げないで、教会やキリスト教信仰について、たずねてくる人がいます。潜在的な求道者ですから、出来るだけ丁寧な応答をすることにしています。見ず知らずの教会に電話するのですから、それなりの決断やなんらかの差し迫ったつらさを抱えてのケースも少なくありません。病気やしょうがいを負うことになった人、いらだつ気持ちを誰かに聞いてほしくてということもあります。「神が愛なら、なぜ、私がこんな病を負うつらい人生を歩まねばならないのか。」「神が愛ならなぜ、・・・」そうした問いは、様々なかたちを変えて、誰の心にも渦巻くものかもしれません。
社会全体から言えば少数なのでしょうが、それにしても、09年に虐待で亡くなった子ども達が409人などという数字を耳にすると、驚きより恐れを感じます。中にはこの数字に入らないで見逃されて亡くなっている子がいるかもしれません。世の中には不条理がまかりとおり、苦しんでいる人の苦しみさえ、世の中の不透明さの中に、消されていくようなケースも限りなくあります。だから<神は愛なのか>とつらい身を抱えてたずねる人に向かって、単に教条的に、あるいは護教的に言葉を重ねて説明をして見ても意味はないでしょう。旧約聖書のヨブ記などはまさにそうした問いを問うたのだと思います。
単純な答えがあるはずはありません。政治的権力や強権によって、社会的弱者に追いやられている人々には、正義や人権の立場から、回復が求められますし、個人的には政治的発言や行動も時には必要だとわたしも思っています。しかしその上でなお、個人においては信仰の意味、信ずることの大切さが浮かび上がってくるように思います。人生は神を信じて、正しい生活をしたら、神様がその見返りとしてご褒美に幸運を与えてくださるというようなものではありません。旧約のイスラエルにとっては国が滅び、その宗教すら否定されかねないバビロン捕囚を経験する中から、それでも依然としてイスラエルを愛してやまない神の臨在、その支配に目が開かれたのです。
目にみえる幸不幸、明らかな順境か逆境だけで、人生のすべてが決まるわけではないのです。人はむしろ失敗や、逆境から学ぶものは大きいはずです。むろんそれだから、困難な中にいる人、困難を背負った人に、我慢しなさいというつもりはありません。人生は共に生きるように導かれた者同士、励ましあい、力づけあいながら、共に生きていきたいと願うばかりです。
ただ、人が直面している痛み、つらさを耐えるには、なんらか自分を越える力が与えられなければなりません。キリスト教信仰は悩める心に大きな力となります。そうして超えてきた人をわたしは何人も見てきたのです。神は通常目に見えない存在です。しかし、ひとが困難につきあたる時に、慰め手として、励まし手として、いわば姿を現されるのです。確かに今の私にはさしたる痛みも、しょうがいもありませんから、何かもの言う資格はありません。でも苦しみの中で、そこにひとすじの可能性を見出しうるのであれば、少し心を傾けることは無意味ではないでしょう。
(2010年07月25日 週報より)