重荷を負いつつ

人は心の中では、自分の存在感を確かめたいという基本的な欲求があります。けれど、日々の日常生活の中で、<自分は他人から必要とされている人間だ>とか、<なにがしかの達成感>を感じ取れるひとは、たぶん多くはないでしょう。たいがいの人は<自分はたいそうなことをやっているのだ。>と思いたくても<他人のやっていることは認めたがらない>競争社会に、わたしたちは身をおいています。自分を省みる暇(いとま)もないほどに精神をすり減らし、悪戦苦闘し、何のために仕事をし、自分は何を生き甲斐としているかさえ見失いかねない社会の中にいます。だれもが疲れきっています。それも、本来自分が取り組んでいる関心事や、やるべきことではなく、むしろ周辺的な雑事やわずらわしいことが延々と続き、力いっぱい努力を傾けているはずの仕事はなかなか結果がだせないのです。結果が出ないどころか、むしろ右肩下がりで、かんばしくない結果に、将来の希望を描けないでいるのです。

一昨日のNHKのニュース番組で、中高年の万引きが急増していることが特集されていました。生活が窮迫したり、仕事のゆきづまりから、つい万引きに手を出し、それが日常化する中高年者が多いのだそうです。人生の大半を終え、仕事も退職し、特に毎日なすべき仕事も目標も、趣味もなく、つい朝から酒を飲む。金銭的余裕がないのでサラ金に手を出してしまう。街角の銀行のキャッシュコーナーは減る一方で、そうした人を誘うように、サラ金大手のプロミス、アコム、レイク、武富士などが、どういうわけか共同して、40-50坪の広くもない更地に、競うようにブースを構えて、人々を誘います。教会周辺でもそれらの共同店舗が3-4箇所はあります。「A社が限度額に達したら、B社がキャッシュを貸しましょう」 いわば、多重債務者の大量生産をおもわせる奇異な施設です。人生を一歩踏み外したら落ち込んでいく蟻(あり)地獄を見るようです。さらに、その中にはまった人を食い物にする貧困ビジネスが成立する経済社会の不思議さ。

でも、人生はそれだけのものではありません。
「恐れおののいて、自分の救いの達成に努めなさい。」(フィリピ2:12)
人生には部分的修正、修復というものはないのです。いっきょに神に目を向けるべきなのです。人生の目標は、仕事でも、顧客でもなく<救いの達成>に設定すべきなのです。目標がかたまってこそ、人生の歩み方が決まってきます。様々な方法論も生まれます。そうなれば、いつか強い意志力を発揮できるこころの素地も造られてきます。究極の目標がリセットされて、日常の仕事も、軌道に乗るのです。日々の生活で、何が必要で、何が不用かもはっきりしてくるでしょう。それは救いの達成にかかわるものなのか、あるいはそうでないのか。わたしたちは判断が必要なのです。
ただそれを判断するのは、他人ではなく、 あくまで<私>でなければならないでしょう。他人には他人の立場があります。私の事を判断するのはあくまでも私。私とは、一番自分が見えない存在とも言えますが、同時に、もっとも自分を知っており、だれよりもその人生に責任を負うのですから。ここに救いか否かが関わります。

(2010年07月18日 週報より)

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