パサジェルカ
2009年、ベルンハルト・シュリンクが書いた「朗読者」(松永美穂訳・新潮文庫)が映画化されて「愛を読む人」という邦題の映画になり、主演した女優さんはアカデミー主演賞を取ったほどの評判となった。私は映画も見、日本語訳の本も読みました。父を大学教授に持つドイツ人の15歳の少年が、母親ほどの年上の、かつてアウシュビッツ収容所の女看守だった女性と恋愛に陥る。その後行方知らずになった女性が、前歴が判明し、戦争犯罪に問われ、刑務所に収監される中、非識字だったその女性のために、成長し、弁護士になった<僕が>間断なく本を読み、録音して、テープを送るという物語でした。真実の著者の父は高名な神学者で、カールバルトの弟子で、戦争中は告白教会に所属し、教会闘争に加わった牧師です。
そして先週、わたしはパサジェルカ(女船客)と題する本を読みました。著者はアウシュビッツ収容所に3年収容されたことのあるポーランド人女性作家ゾフィア・ポスムイシ。物語は戦後10数年たったころ、ドイツ・ハンブルクの港からブラジルに向けて出航する豪華客船に乗りこんだ、ワルター・クレッチマーと妻のリーザの物語です。結婚して10数年たつ夫婦は仲もよく、夫は将来のある外交官。何もかも順調に見える夫婦ですが、妻のリーザには夫にも明かしていない秘密を抱えています。じつは彼女は戦時中、アウシュビッツ強制収容所で看守をしていたのです。
たしかに文中にもありますがヒトラー支配下のドイツでは、国中がある意味では強制収容所だったようです。ですから国家活動、市民活動のすべてが、戦争遂行、ユダヤ人絶滅のために動かされ、これに反対する人々は、強制収容所に送られたのでした。ドイツ最初の強制収容所はミュンヘンからわずか20キロという近さにあるダハウ収容所で、ここにはまず反ナチ・反体制派、宗教者が送られたといわれます。当時、ヒトラー支配下のドイツ・フランス・オーストリア・ユーゴ・ポーランド・エストニアの二十箇所ほどの絶滅収容所に勤務した人々は数多くいたことです。そこに勤務した人々は、収容者は気の毒だったとは思っても、自分が間違ったことをしているとは思わなかったかもしれません。戦争遂行のため、お国のためと思うとき、人の良心が麻痺することは、どの国でも変わることはないでしょう。
しかし船に乗りあわせた女乗客の一人に、リーザが深く関わった囚人がいたのです。リーザは囚人には可能なかぎり親切にしたという自負があります。しかし狡猾な収容所当局は、後にこれは戦争犯罪に問われることを知っており、最後にリーザが収容所勤務をやめる直前に、収容所に到着した囚人を、ガス室か、強制労働かをより分ける作業に服させるのです。結果として彼女は多くの人々をガス室に送ったのです。
<朗読者><パサジェルカ>も、共にヨーロッパの人々は過去の悲劇を忘れまいという意思をそこに感じます。むろん決定的に責任があるのはヒトラーやナチ指導部にあることは当然としても、結果として協力した民衆の存在なしには、あの犯罪はありえなかった。ひとは神の前では赦されると言うことは、言いえると思います。しかし、あったことを、なかったことのように、感じ取ることは赦されない。それは日本人でも、アメリカ人でも、そうでなければならない。
キリスト教のメッセージに罪の許しは中心的な教えです。イエスキリストの十字架は、人のどんな罪も赦されるというものです。たとえばパウロは、かつて教会の迫害者として「男女の別なく」(使徒言行録9:2)人を傷つけ、処刑していた。そこからの回心経験こそ、信仰の出発点だった。つまり過去の罪は赦されたと信じていたが、過去の罪は忘れることも、隠蔽することもなかった。神様は赦してくださったのだから、私の罪は消えてしまった・・・というのは間違いでしょう。神様は健忘症ではない。忘れたふりをしてくださっているにすぎない・・・のではないか。赦された原点こそ、始まりの原点です。ましてや赦されたことはなかったこと、赦されたとは、罪が消えたこと・・・などととられたら、赦してくださった神様があわてなさるのではないか。われわれは赦された罪びとに過ぎない。そうであれば、他人にはいっそう寛容になれる。
(なお昨年、有名なオーストリアのブレゲンツ音楽祭では、ポーランド人作曲家ワインバーグによる<パサジェルカ>が演奏され、評判となった。)
(2011年03月06日 週報より)