痛み

今肉体に、精神に、痛みを抱えている人が多くいます。心にもからだにも何の病気や痛みもないという人はむしろ<例外的>といえるのではないでしょうか。一見元気そうに見えて、様々に病む部分を抱えているわたしたち。
わたしの周辺の牧師仲間では、健康診断をしない、という人が意外に多いのです。「お医者に行けば一つ、二つ、病気が見つかるから。」というのがその理由です。牧師の健康診断は本人任せです。ですから症状がでてから、やむなく病院に行くというケースが多いのです。糖尿病、心臓病が判明したのち、健康回復に至るには相当の時間と費用と忍耐が必要になります。無論、ある程度の年齢になれば、ひとつふたつ、三つ四つの病気や痛みを抱えることは避けがたいことと思わねばなりませんが、避けることが出来るものなら、健康診断は必須のことです。

病気や痛みとは、つらい現実です。同時に、こうも言えます。「わたし自身」が何らかの痛み、苦しみを知っているとは、痛みのゆえに、痛みを負う他人を思いやることも出来るかもしれない。
病気によってはあからさまな差別に直面する人々がいます。HIVエイズは言うに及ばず、海外で新型インフルエンザにかかって帰国した人が、「病気を日本に持ち込んで申し訳ありませんでした。」と周囲の批判にさらされて謝罪したというのはほんの数ヶ月前のことでした。病気や痛みは弱さです。でも、弱さがやさしさや思いやりを生み出すきっかけにつながる場合があります。 健康という明らかな強さが時に差別や圧力を生み出すのと正反対の動きです。
パウロはキリストのめぐみは、<弱さ>の中でこそ発揮されると語りました。(コリント2 12章) でもそれは自動的ではありません。病気や弱さが、<絶望や恨み>というネガティヴな力につながることだって大いにあります。「なぜ自分がこの病気にならねばならないのだ。」「自分だけが苦しまなければならないのだ。」そうした思いになることは無理からぬことです。そうなってはならないと言うつもりはありません。しかし人間存在は健康と病、成功と失敗、幸運と不運、生と死の両方を抱えて生きるものなのです。
なぜ神様は、人間に病気と死を与えたのだろう。どんなに品行方正で、敬虔深い生涯を送っても、病気や不運のリスクがその分減ることはまったくないのです。

痛みや苦しみにも、きっと意味があります。わたしたちは、出来ればそうしたものとは無縁の生涯を生きたいのです。しかし不運にもそうしたものをこの身に引き受けたときに、そうでなかったときに見えなかったものが、見えてくることがあるのかもしれない。
ルカ10章のよきサマリア人。彼は差別される側の人間だった。 個人の努力や、財力や、教養など、人種差別の前には無力です。日常のありとあらゆる差別に苦しみ、痛む心が、この人の場合、憎悪や絶望でなく、その反対の、愛と献身につながったのです。この話を語ったイエス・キリストこそ進んで十字架の苦しみにむかって、一直線にそのあまりに献身的な歩みを貫いたのでした。

人には痛みがあります。つまりわたしにも痛みがあります。この痛み、苦しみを、絶望や恨みにつなげるのか、逆に、他者への共感につなげるのか。それはわれわれ自身の生き方につながるのです。

(2009年10月11日 週報より)

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