名前
昨年、娘が二十歳になった。今年息子が二十歳になる。早いものだと思う。娘、息子が生まれたときの、名前を考える気持ちが思い出される。名前にどんな意味を込めようか、この名前を付けたら学校で、友達からなんと呼ばれるのか、いろいろに考えて名前を付けた。一人一人に名前があり、それぞれに意味があるということは素晴らしくそして重要だ。その人のアイデンティティであり、この子を尊重して欲しいという親の思いでもある。
日曜日の朝9:00から子ども礼拝が始まる。スタッフには、この礼拝で聖書の話をする機会が、月に1度巡ってくる。話の準備をすることは、聖書を読み直すよい機会となる。私の場合、1月は「ルツ記」であった。全部読み直すのも苦にならない、4章という短い巻である。このルツ記には、「ナオミ」や「ルツ」という日本人にありそうな名前が出てくる。日本人もそうであるが、ユダヤ人も同様にそれぞれの名前には意味がある。
この巻に登場する「ナオミ」は「快い」、ナオミの息子二人の名前は「マフロン」「キリヨン」で、それぞれ「病気」「衰弱」という意味になる。
父親の「エリメレク」は「わが神は王」という意味であり、それぞれの息子の妻「オルパ」は「うなじ」、「ルツ」は「友情」という意味だそうだから、「ルツ記」はユダヤ人には、さしずめ「友情記」と聞こえるのかもしれないし、内容を読むときに登場する人名や地名は、きっと面白く響くのだろうと思う。
旧約聖書は「39巻」、新約聖書は「27巻」あるが、各巻の内容は、様々な主張を持っている。内容的に、ナショナリズムを強よく感じる巻があれば、「ルツ記」のようにモアブ人の女性の名前を巻名とした反ナショナリズムを感じさせる巻もある。つまりルツの義母であり、ユダヤ人である「ナオミ記」としなかった所が、絶妙な主張の一部となっている。
1月子ども礼拝で取り上げた、「ルツ記」の箇所は、飢饉の故にベツレヘム(パンの家という意味だから、飢饉との掛け合いで面白い)を離れて肥沃な平野である、モアブの地に移り住んでいたナオミ一家が、夫と病弱な名前をつけられた二人の息子がモアブ人女性と結婚後早死してしまい、失意のうちにベツレヘムに戻るという場面であった。
1章16節にルツが義母ナオミと共にベツレヘムに戻りたいと哀願する場面の言葉として「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神。あなたの亡くなる所でわたしも死に、そこに葬られたいのです」という表現が出てくる。モアブ人が異邦の神を離れ、ユダヤの神を信じる改宗の言葉と読む事が多いと思 う。
ナオミ一家のモアブでの生活ぶりを聖書は語らない。「語らないという行為」が、ルツ記の主張ではないだろうか。創世記19章30節からのモアブ人の始祖(ロトの子ども)の云われを読むと、私がモアブ人だったら聖書を読みたくないだろうと思うような内容が記載されている。つまり当時のユダヤ人にとって、いくら飢饉でも、モアブ人の地で生活すること自体が、自慢できたものでは無かったはずである。
上記したルツの義母ナオミへの愛情が静かに物語るのは、ナオミの生活ぶりではないだろうか。難しい神学や哲学を語るより、その人の日々の生活態度が語るもの、それこそが真実に人の魂に沁みこんでゆく。ほんのちょっとした仕草が神を雄弁に語る。
パフォーマンスや、伝道しなくてはといった意気込みは、対応する人に嫌悪感を起こさせる。生活が語りだす言葉は、対応する人の魂に届く。
モアブの地で、モアブの宗教を見下して、ユダヤ人であること、その宗教を振りかざした生活を、ナオミ一家はしていないのではないか。いや、モアブの地を頼って、飢餓を逃れてきた一家にとって、そのような生活が出来るはずもない。かといって、自己のアイデンティティを失うことなく、モアブ人と共に向き合うように生きようとする姿が想像される。モアブ人の嫁に対しても、ユダヤ教への改宗を強要した様子もない。「あなたの神は私の神」になると、告白するルツは、この時点ではユダヤ教徒ではないのだから。
一人一人の人格、自己と他者のアイデンティティを大切にする心と生活は、イエスの言った「第一の掟は、・・神を愛しなさい。第二の掟は、・・隣人を自分のように愛しなさい」(マルコ12 : 29~31)に通じるものがある。「自分のように愛する」とは「自分の生活」「自分の信仰」、大切にする全ての「自分」のように、隣人を大切にする、愛するとも言える。そこには他者のアイデンティティ侵害を正しいとしない豊かさがある。響きあい共鳴しあうハーモニーのような広がりがある。
モアブ人のルツはユダヤの王ダビデの先祖となり、その子孫であるヨセフはマリアの夫であり、マリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになったと主張するのが、新約聖書第1巻マタイ福音書である。
O.N (2008年02月10日 週報より)