イチバンでなければ!!!

府中の大国魂神社に向かって、樹齢数百年というケヤキの並木がそそり立っています。これはかつて新田義貞が足利尊氏との合戦を前に神社に祈願して奉納したものと教えられました。分倍河原や関戸は10万を越える両軍が戦った古戦場でした。戦国の武将達は命がけの戦いを前に祈願し、鳥居や神社を奉納することがしばしばあったとのことです。
旧約聖書の士師記にはアンモン人との戦いを前に、その時代の士師エフタが勝利を祈願して、勝利の暁には帰還したとき、最初に自分を迎えるものを、<焼き尽くす捧げもの>として捧げますと誓願します。やがて、みごと戦いに勝利したエフタを最初に迎えたのは愛する娘でした。娘は自分に課せられた運命をうけ入れるという物語です。
そうした非人間性がイスラエルの士師時代の堕落の象徴として描かれるのです。全く同じような物語はトロイア戦争で勝利したアガメムノンの物語です。アガメムノンは出征に際し、逆風で船が動けなくなり、娘のイフィゲイアを生贄として捧げます。やがて10年の後トロイとの戦争に勝利して帰還したとき、娘の殺害を恨む妻クリュタイメストラとその愛人によって殺害され、またこれを恨んだ娘が母親を殺害するという物語です。

私こそ勝利者でありたい。あらねばならない。新田義貞も、エフタもアガメムノンも同じです。何を犠牲にしても勝ちたい。
北京オリンピックの野球の監督だった星野仙一も「金以外は要らない。」と意気込みを見せました。そして結局、銅メダルにも手がかからず無冠で終わりました。星野への社会の目は冷たいものがあったでしょう。・・・でも社会そのものが競争社会といわれます。誰よりも強く、早く、立派であれるように。
以前朝日新聞の記事で、あるモデルをしているという女性の紹介がありました。顔はぼかしてありましたが、美しい女性のようでした。彼女はどんな業界でも良い。一番になりたいと願ったのです。そして記事によれば、彼女が最後に行きついた職業はAV女優だったのです。ナリもフリもありません。他人より少しでも上に、見た目よく、かっこよく・・・。そこにこめられた本人の心や、意味はあまり問われません。

ある母親の話です。お嬢さんは母親からは、体力も、能力も劣っていると感じていました。ある日担任の先生からの書類で「子供のよいところ」と言う欄に書き込まねばなりませんでした。良いところ、優れたところなど何もない。「無し」と書こうとしました。でもいくら率直な母親でもそれはあまりのことです。お母さんは考え直しました。そして四つあげてみました。
①やさしいこと
②人の心がわかって、思いやろうとすること
③自分が感じていることを素直に表現する
④自分のことはできるだけ自分でやろうとする
そう書いてみて、娘は人が持っていなければならない大事なことはしっかり持っていると気づいたとのことです。

人を出し抜いて、競争を勝ち抜くこと。その過程で人は大切な心をあちこちに置き去りにしていきます。競争や、闘争では、他人は敵であり、よくてもライバルにならざるを得ません。蹴落とすか、蹴落とされる存在でしかありません。そこでは共に歩もうとする友情は生まれにくいでしょう。
多くの人々がこのあるがままの私を受け入れられないでもがき苦しみます。視点を変えて、このわたしは神が与えてくださった自分と受け止めると、あるがままのわたしをいつくしみを持って受け止められるのではないでしょうか。これでも特別な私。良い部分をたくさん持っている自分。自分が受け入れられれば、他人も受け入れられます。友達が生まれ、愛が育ちます。
しばらく前にヒットした歌<number oneではなくonly one>も神さま抜きでは成り立ちません。

(2008年10月26日 週報より)

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