員数あわせの使徒だが・・・

ペンテコステの出来事は上からの神による一方的な教会の創設でした。けれど弟子たちは彼らなりに再出発への心備えをしなかったわけではありませんでした。まず一時はガリラヤにひきこもっていたところから、エルサレムに戻って、祈りを回復していました。さらに欠員となってしまったイスカリオテのユダのかわりに、ヨセフとマティアという使徒候補を立て、くじ引きでマティアを使徒として選任したのでした。これで12人が揃いました。そして五旬節(ペンテコステの日)聖霊が弟子達に下ったのです。

でもこのマティアという人、ユダの欠員を埋めるためだけにこの場に登場したような印象があります。見方によれば、員数あわせのためだけの使徒と揶揄されたかもしれない。他のどこかで活動した痕跡はまったくありません。それでも弟子達の再出発を決定付ける12番目の使徒としての存在は重い意味があったというべきでしょう。しかも教会にはやがてステファノやフィリポという影響力も雄弁術もある執事(信徒)が現れ、さらにかつて教会の迫害者という前歴を持つパウロが、途中から加わって、自分こそ使徒であると強力に主張したのでした。
自分からは望みもしなかった使徒職についたマティア、その働きは他人の目にはまったく映りません。どこで、何をしていたのか所在も不明な使徒です。
他方、保守的な人々から<勝手な自己任命>の使徒と批判されながらも、本来使徒がそうであるように目ざましく強力に宣教活動を展開して教会を世界中に広めたパウロ。マティアはますます小さくなって、ひたすらその無能を神にわびていた(?)かもしれません。

でも地味で寡黙なマティヤなしで、ペンテコステの聖霊降臨は果たして、起こったでしょうか。何ができるではない、雄弁でもない、伝道力があるわけではない。でも、もしそこに自分が必要であることが知覚できたら・・・マティヤの場合、くじに当たってしまったら、神の業に自分をゆだねようとする。ともかく12番目の使徒として弟子団を構成する一員になる。個人として、使徒団の一人として、これから神がなそうとする<何か>をただ待ち望む。そこにおこった聖霊降臨のできごと。それは人類史においても特筆大書する偉大な出来事だった。
そんなことが起ころうとは、かけらも思わなかったマティヤ。この人が従順にうけ入れようとした使徒職。そこにまさに働いたのが聖霊でした。聖霊がやがての日にパウロを回心させ、ステファノの殉教においては「主よ、この罪を彼らに負わさないでください。」と十字架上の主イエスと同じ祈りを祈らしめたのでした。そして、ただ、ただ、小さな存在であるわれわれ。目立たず、寡黙で、人目に覚えられない存在。でもここに神の目が注がれている。そのわたしたちに神は何ごとかを託されるのです。

(2008年06月29日 週報より)

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